【第32回】 やってきたことがすべて、自分へと結ばれていく

高齢者は、これまでにいろいろな経験をしてきたことであろう。経験してきたことのなかには、自分でやりたいと思ったこともあるし、やるべきと考えたことも、それほど考えないで無意識でやったこともあるだろう。そのすべてが、今のような人を作り上げたわけである。

やらなければならないと思うこととは何か、また、やりたいと思ったこととは何かを考えてみると、一つには、会社、学校、家庭などの社会でのことであり、もう一つは社会的にはあまり価値は無いが、自分自身の声にしたがってやるものである。社会的な領分でのものは意識してできるが、人間としての声は無意識からのものであり、社会的な評価もないので、どうしてもその声を無視しがちになる。

だが、やりたいと思ったこととは、その人に必要だったことなのである。やりたいと思ったのにやらなかったのは、いろいろ事情があるにせよ、自分にとっては欠けることとなる。だから、あの時やっていればと後悔するのだ。それに比べると、やって失敗したことは大した後悔にはならない。その失敗によっていろいろ学ぶことや発展があったはずだ。

だから、ある本を読みたいと思ったら、そのときその本を読むべきである。後で時間ができたらなどと思っていると、その本への興味をなくし、別の本や別のテーマに興味が移ってしまうものだ。せっかく自分が知ろうとしたことが身につかず、その領域が自分に欠けたままになってしまう。

若いうちはともすれば、まわりの影響を受けたり振り回され、本当に自分がやりたいことが分からないまま、時として自分の気持ちに反したことをやり、後で後悔することもあるものだ。しかし時には、これは絶対やらなければとか、やりたいと思うことがあるものだ。それを逃げたり、やらないですませると、何か大切なことを欠くことになり、自己の完成に支障をきたすことになる。その結果イライラしたり、憂鬱になったり、暗い顔になったりする。これは心の深い底からの"声"が不満を言っているのであろう。

また、やってはいけないことをやった場合、それは悪いことだという声も聞こえてくるようだ。人を殺したりすると殺した人の姿が現れたり、声が聞こえたりして夜も眠れないというのは、自分の正直な声であろう。

ふだんは意識して物事を処理し、活動していても、無意識からのメッセージが姿や声になって出てくるのである。このような場合、無意識からの声を聞き、その指示や命令に従わなければ、安らかになれないだろう。人は表面的には皆それぞれに違うが、人の奥深くには共通して有している領域世界がある。

高齢者になれば、周りを意識することも少なくなるだろうから、極力自分の気持ちをそのまま受け入れて、やりたい事をやるべきである。自分の気持ちとは、心の奥から来る声であり、自分に必要なことを教えてくれる声である。その声を聞いて実行すれば、自己が完成に近づいていくはずだ。自分がやってきたことが、自分を作り上げるのであるから、やることすべては自分へと結びつくのである。自分がやりたいと思ったことをやっていれば、満足して死ねるのではないだろうか。