【第315回】 四次元で生きる

定年を過ぎ、生産に携わる社会から退けば、時間的そして精神的な余裕ができるようになる。もちろん、いろいろな事情や個々の事情によって、以前働いていたときよりも厳しくなる方々もあるだろう。以前の生産性社会の延長ということになれば、精神的そして時間的にも以前と同質ということになってしまう。

今回の話の対象は、定年になっても年金暮らしをしながら合気道の稽古をしているような、余裕のある人たちである。そして、テーマは、そのような人たち、特に、合気道を学んでいる人たちが残りの人生をより充実するためには、どのように生きればいいのか、合気道の稽古をどのように続けていけばいいのかを考え、提案することである。

昨今の流行りは、デジタルということに集約されるだろう。コンピュータはもちろん、テレビも電話もデジタル化されている。確かに情報を迅速に処理できるようになり、世の中は便利になったようだが、問題なのは、我々高齢者は若者のようにこのデジタル文化に十分ついていけないこと、もうひとつは、人間までもデジタル化していることである。

現代ではイエスかノー、好きか嫌い、出来るか出来ないか、上手いか下手かなど、二極の選択しか取れないようで、その中間とか、そうでもあるがこういう場合もあるなどファジー、また、線的・面的な思考法や発言ができなくなってきているように感じる。

生き方、普段の生活がすでにデジタル化しているといえるだろう。誰でも目標を持つ、そして、それに向かって進む。これは今も昔も変わらない。しかし、今と昔では大きい違いがあるように思える。イメージとして一言でいえば、昔はアナログ、今はデジタルである。

昔、私が子供だったり若者だった頃は、携帯もなかったし、時間はあったが金がなかったので、基本的には歩くしかなかった。途中で歩きながら周りを見たり、先方のことを考えたり、景色や人に感動したりした。

今、街を歩いている人を見ると、みなさん忙しく歩いている。青信号になるのを待てずに赤信号で渡ったり、歩きながら携帯で話したり、周りの人に追い越されないよう、少しでも追い越していこうと、まるで徒競争でもやっているように目まぐるしい。

携帯で話している人は、目的地に向かっているわけだが、目的地に着くまでは、周りのものをまともに見たり、考えることはできない。だから、途中は空白になっているといえるだろう。つまり、出発点と目的地にだけ自分があって、生きていることになるが、その間は無のゼロということになる。つまり、点と点だけのデジタルということになる。

その典型的な例は、旅行である。今の旅行はまさしくデジタルだといえよう。つまり、どこそこに行った、行かないを重視し、行ったところや国の多いのを自慢しているようである。それにくらべて、我々アナログ高齢者は、目的地に着くまでのプロセスを楽しんだものだった。

横浜の大桟橋で多くの友人が見送りにきてくれたこと、食事もできないほどの船酔い、初めて外国の地を踏んだ感激、規制の厳しかった共産圏の国、初めて外国で話した英語、それが通じたときの驚きと喜び等など、出発するまでは予想もしていなかったことの連続であった。これが旅行の楽しみであり、醍醐味のはずである。旅行の話を聞く人も、プロセスの話の方に興味があるはずだ。

生産社会で忙しく生きている若者には難しいだろうが、余裕のある高齢者は、デジタルではなく、アナログ、そして四次元で生きることを推奨したい。

デジタル的生き方とは、前述のように点的な生き方である。つまり二次元ということになる。アナログ的とは、線的そして面的な生き方ということになるだろう。出発点から目的地へ向かうにあたっては、その道程を楽しみ、周りの景色を楽しむことである。これは立体的であるから、三次元ということになる。

これに、時間が加われば四次元になる。四次元で生きるとは、三次元を楽しみながら、時間を楽しむことである。時間を楽しむことは、周りの三次元を楽しむことができることになるはずだ。いつもの歩調を変えてみればよい。見えるもの感じることが変わってくるはずである。

合気道の稽古でも、四次元で楽しむのがよいだろう。相手を投げるとか抑えることに集中したデジタルの稽古ではなく、投げるまでのプロセスを楽しみ、相手だけではなくその周辺(その最大のものは宇宙)を楽しみ、そして時間を超越した時間(勝速日)を楽しむことであろう。