【第300回】 人間復帰

21世紀になっても、地球上ではまだまだ争いが絶えない。人類は誰もが平和を望んでいるが、残念ながらその多くの場合は争いになってしまっている。

政治家や有識者や国連などの組織が、文字や画像や音声やノーベル平和賞などで平和を取り戻す努力をしているが、争いは増加、拡大、多様化しているようにも思える。

人類が争いから抜け出せないのには、何か根本的な問題があるのではないかと思う。何か新しい解決策を見つけなければならないはずである。それには合気道の思想も大いに役立つのではないかと思うし、役立てたいものである。

第300回の「合気道の思想と技」には、「世の中が乱れたり、争いが起こるのは、人がこの一元の本を知らず、又は忘れ、またこの一元の本に繋がっていることを忘れているためだと言われている。それ故、一元の本を忘れるのは罪であると言われる。」と書いてある。

もし人類がみんな、また万有万物も、この一元のもとの一家であり、すべての人々が家族として繋がっていることを知り、そして忘れなければ、兄弟喧嘩程度の争いはあるだろうが、戦争のような悲惨な争いはなくなるのではないだろうか。

人類の歴史は争いの歴史ということができるだろう。つまり人類の歴史の主流は争いだったということだ。

争いにはいろいろあるが、最も根元的で必然的な争いは、食べ物がなくなり、食べるための争いであろう。人類だけではなく、動物は食べなければ生きていけないので、食べ物がなければどんなことをしてもそれを手に入れようとするし、食べられるものは何でもたべてしまう。マルサスの『人口論』にあるように、未開発地では食べ物がなくなると他の部族を襲い彼らを食べた。つまり食べるために戦争をしたのである。食糧がないために人肉を食べたわけであるが、これは一部であるが20世紀まで続いた。

現代は飢えても人肉をたべるために戦争をすることはないが、少しでもよいものを、少しでも多く、手にするための争いをしているといえよう。モノはもう十分あるのに、別の名義で戦争している。ドンパチやる戦争もそうだが、経済やビジネスにおいても、競争という名の争いと言えるかもしれない。

腹が減れば奪い取っても食べる、何でも食べてしまうというのは、人類の生存本能によるものだろうから、その本能が目覚めないようにするか、その本能を抑える強い何かを持たなければならないだろう。

生きていく上で衣食住は満たされていたり、モノやお金があり余っているような者までが、さらにそれを増やそうと鵜の目鷹の目で商売をする。これは、楽天を目指す宇宙の意志に反しているはずである。

一元から物体と精神の二元に分かれたが、人類は段々と物体を重視し、求めるようになった。精神とのバランスが崩れ、今や精神で物体をコントロールできなくなってしまっている。物体に、精神も人自身も、振り回されるようになってしまっているといえよう。

この物質文明を促進したのは、科学であろう。しかし、この科学は、人類の思想を変えてしまった。例えば、「我思う、ゆえに我あり」で有名なデカルト等が、科学の発展を促した。「科学が発展すれば、人間は自然を奴隷のように支配できるというデカルトの哲学が人類の思想になった」という(梅原猛)。その結果、人類は自然との争いをすることになる。

科学の名のもとに、人間は自分自身をも奴隷化している。自分の肉体を切ったり張ったり、薬漬けと、体は科学の名のもとに他人任せ。スポーツや武道も勝負に勝つために、科学に頼るようになった。経済も社会も、合理的経済的という名の下で、人間を無視しながら押し進められている。食べ物、住居も、だんだんひどくなってくる。人間がコントロールできないような原発など、好例である。

人間は自然の主ではなく、自然の一部であるはずだ。自然を支配するために争うのではなく、自然と共存すべきだろう。人間がそれに目覚め、自然にその地位をお返ししたいものである。

合気道でも、技はつくり出すものではない。既に存在しているはずのものを見つけ、自然、宇宙に感謝しながら身につけていくのである。

人間復帰である。これを、万有万物を創造された一元の本の大神様である創造主は、待っておられるはずである。