【第295回】 社会に還元

人は百年足らずの命を生んでは死んでいくという歴史の繰り返しを、数千年、数万年にわたって続けてきている。しかし、人はどこからきて、どこに向かおうとしているのか、生まれては死んでいくという繰り返しに意味があるのか、人には何か使命があるのか等などは、人類永遠の課題であり、研究テーマであるはずだが、まだ納得できるような回答は出ていない。人類の歴史は、宇宙の137億年に比べれば、数百万年と短すぎるので、この答えがでるのにはまだまだ数百万年、数千万年かかるのだろう。

現実には、そのようなことを知らなくても生きていけるし、興味がない人も多いだろう。もっと大事な事があるのだから、そんなことには構ってなどいられないという人が多いのが現状だろう。

人が生きていく上で、ベースになるのは経済である。生活していくには衣食住のために働かなければならないし、そのために時間、労力、思考などなどを費やすのだから、それ以外の事を考える余裕はなくなるだろう。合気道の修行を続けるためにも、経済はベースなので、経済のためにも一所懸命働き、勉学に勤しまなければならないと、開祖も言われている。

しかし、年を取ってくると、若い頃のような多様な欲望はなくなってくるし、経済に関しても少なければ少ないなりに固定されるので、経済への関心は薄れてくるはずである。70,80歳になって目の色変えて金儲けをしようとしている姿は、何か事情があるにせよ、不自然に思える。不自然というのは、どこかおかしいということである。

人はいずれこの世からおさらばするわけだが、おさらばするにあたって金を残すのは愚であり、その愚のために残り少ない時間と力を浪費するのは愚の骨頂だろう。後藤 新平(ごとう しんぺい)が三島 通陽(みしま みちはる)に言ったという有名な言葉に、「財を残すは下、仕事を残すは中、人を残すを上とす」というのがある。後藤新平は国を念頭に置いていっているのだが、これは個人にもあてはまると思うし、人も世の中もそうなって欲しいと思う。

今はカネカネの世の中で、何でも金と関係づけられ、金に換算される。そのため、金にならない事はやらないという傾向になるのは、寂しい限りである。

では、どう生きていけばよいかということである。若い内は、難しいだろうが、年を取ってきたら、仕事を残すことか、人を残すことであろう。

だが、後藤新平や会社経営者などなら、仕事を残すことはできるだろうが、ふつうのサラリーマンなどにはこれは難しい。合気道の世界でも、組織にある人には可能かもしれないが、一般の稽古人には難しいだろう。

しかしながら、合気道でも人を残すことはできる。そして、それは先輩、先人の務めである。つまり、人を育てることである。人を育て、そして育てられた人がさらに次の人を育てる、を繰り返していくのである。人を残すのを数千年、数万年続けていけば、合気道がより完成に近づき、人類も進化し、自分達の使命も分かるようになるかもしれない。

また、合気道で仕事を残すことを、鍛錬する技を見つけていくというふうに解釈すれば、無限にあるはずの「技」を少しでも多く見つけるのが仕事であり、それがさらなる仕事を残すことになると考える。つまり、見つけた技を土台にして、後進はさらに新しい技を見つける仕事をするということである。

合気道でも、仕事を残す、人を残すことこそが、高齢者が社会に還元できることではないだろうか。