合気道の修練に終わりはないが、いつかは終わりになる。人はみな違うわけだから、終わり方も違うはずである。なにか参考になるものがあればまねさせて頂くが、最終的には自分で決めなければならないだろう。そろそろ先も見えてきたわけだから、いろいろな状況を想像しながら、稽古の終了を準備していかなければならないと考えている。
最も確率の高い終わり方は、体が動かなくなってくることだろう。歩くことも立つこともできなくなったら駄目だろう。
体が動かなくとも頭が機能していれば、考えることはできるはずなので、思考的な修練は続けられるかもしれない。しかし、体が動かなくなっても合気道のことを考え続けられるかどうか、なってみなければ分からない。
その他にも、経済的問題、身内の不幸、天災等などで続けられなくなることもあるだろう。これらは、問題が起こってしまったために、続けたくとも続けられなくなるわけだから、これもどうしようもないだろう。
さて、問題は、あまりそのような事は起こらないだろうが、もし、そうなったとしたら、自分は合気道の修練を続けるかどうかということである。例えば、病気であと一年の死の宣告を受けるとか、翌年に他の惑星が地球に衝突すると地球最後の日が宣告されたとしたら、果たして自分は合気道の修練を続けるかどうかである。
そんな事を以前から考えていたところ、司馬遼太郎の『世に棲む日日』を読んだ。死を覚悟している吉田松陰と弟子が、獄中でさらに学問をするという場面に出くわしたのである。感動したところなので、そこを引用させてもらう。
「金子君、きょうの読書こそ、真の学問である」と、(松陰が)ひどくあかるい声でいった。「君は漢の夏候勝(かこうしょう)と黄覇(こうは)の故事を知っているか」と、松陰はいう。金子が存じませんというと、松陰はそれを簡単にのべた。夏候勝は漢の武帝につかえたたいそう偉い学者であったが、あるとき罪におとされて獄に下った。黄覇もその獄の仲間だった。黄覇は獄中で学者の夏候勝に、この機会に学問をしたいから、是非さずけてほしいと、いう。夏候勝はおどろいて、「どうせ刑死する身に学問は要らぬではないか」というと、黄覇は、「それはちがうでしょう、孔夫人(孔先生)のお言葉に朝に道を聞いて夕べに死すとも可なり、ということがあります。」といった。
「それと同じだ。われわれは遠からず死罪になる。いまの読書こそ、功利を排した真の学問である。学問とはこういう時期の透明な気持から発したものでなければならないのだ」 − 相ともに声を出して読む。と、松陰ものちに書いている。
合気道には試合もないし、優劣を競うものでもない。技を練磨して身につけても金にも名誉にもならない。若い頃は若さと惰性でやっているので、あまり考えないでやっているのだろうが、何か得られるのはないかという目先の功利的な目的もあっただろう。
年を取ってきて、仕事も辞めて稽古を続けていくと、稽古が透明化してくるようである。透明化というのは、功利的なものではなく、他人を対象としたものでもない。非功利的で、自分自身を対象にしたものになってくる。
真の稽古とは自分との戦いであり、それは宇宙の意志、つまり、宇宙生成化育の道に則った道であろう。その道に近づけば近づくほど、透明化することになるのだろう。
これは、若いあいだの、社会とのしがらみが多くあるうちは難しい。社会の生産体制組織から離れ、しがらみが無くなれば無くなるほど、そして功利を排するようになればなるほど、真の稽古ができるようになるはずである。この状態が、松陰や黄覇の置かれたものだったと考える。
とはいっても、先のことは分からない。しかし、これまで考えていたような、病気で一年先の死の宣告を受けたり、翌年には他の惑星が地球に衝突するとかいう場合でも、それに対応するための考え方は持つ事はできたように思う。「朝に道を聞いて夕べに死すとも可なり」である。できるかどうかはわからないがそうできたらいい。
参考文献 『世に棲む日日』(司馬遼太郎)