【第274回】 常に心にとめておく

年をとってくると、以前の若い頃とは、いろいろなことが違ってくる。社会環境、人間関係、自分の肉体や考え方等などである。

若い頃はよかったとか、若い頃に戻りたいなどという人がいるが、できない事をいっても仕方がない。それに、年を取ることは、悪い事ばかりではない。

私個人としては、若者が羨ましいとは思わないし、若い時代に戻りたいとも思わない。なぜなら、若い時にあった苦労など二度としたくないし、若い時にもらった同じような運に再び恵まれるとは限らないので、若い頃に戻ってやりなおしたとしても、今よりよくなることは絶対にないと確信するからである。だから、若い人を見ると、若者を羨むことなぞなく、逆に、若者はこれからいろいろ試練があるだろうから大変だろうと同情する。

一般的に、高齢者になると、仕事からの緊張から解放されるし、経済的にも安定するだろうから、頭を煩わす心配事も少なくなり、悠々自適で過ごせるはずである。

多くの高齢者は、若者が羨み、妬むような気楽な生活をしているわけだが、残念ながら物事はそう単純でない。心配事がなくなり、通勤地獄もなくなるので、体は弱り、頭はボケる危険性が忍び寄るのである。

人は、若かろうが、年を取ろうが、ある程度の緊張は必要なようである。緊張が無くなったとき、年よりはボケてしまい、仕事やものごとの成果も上がらないことになる。

若い時は、周りからのプレッシャーから、嫌でも緊張せざるを得ないことが多い。だから、若いときはその緊張を解くために、いかにリラックスするかを考えるし、それが大事だろう。

それに引き換え、高齢者は、原則的に朝から晩までリラックスしていることが多いはずなので、いかに緊張するかを考えなければならないだろう。しかし高齢者の場合、今までと違って、緊張は周りから来なくなるだろうから、自分でつくらなければならないことになる。

緊張するということは、容易な事や、容易にできるようなことを、やるのではなく、難しい事や、できるかどうか分からないようなことに、挑戦することであろう。

挑戦する目標には、短期的なものと長期的なものがあるだろう。短期的なものは逃げずに挑戦し、迅速に美しく処理するようにすればいい。短期的なものは、たいていの場合、外からくるものである。いつどこから来るか予想がつかない、受動的なもので、自分の意志や意欲を入れ難いから、よい緊張が得にくいことになる。

先の見えてきた高齢者が、よい緊張、能動的な緊張を持つためには、長期的なもの、生涯追求するものを持つのがよい。そういう意味では、合気道同人は幸せといえよう。なぜならば、最適なものを持っているからである。

高齢になっても、合気道が生きがいになればよい。緊張はするだろうが、最後に、やっていてよかったと思えればよい。緊張もしたが、やるだけはやったと思えればもっとよい。緊張とは、気持をあるものに張り巡らせておくこととも言えるだろう。合気道から気持を切らず、合気道と合気道に関連するすべてに気持を張り巡らせることである。

人生の最後に悔いがないようにするには、どうすればよいかと言うと、最後までやりきることの他に、常に合気道の修行を心にとめておくことである。道場での稽古だけでなく、道場を離れても、家にいても、外で過ごしていても、風呂に入っても、合気道を心にとめておくのである。

そうすると、いろいろな考えや閃きが起きたり、テレビや新聞や本を見ていても、必要なことへと導いてくれたり、ヒントがあったりする。すると、よしこれを道場で試してみようとか、ここが間違っていたようだから、今度はここを直してやってみようなどと、励みになるものだ。確かに、いつも心にとめておけば、何かが声を掛け、助けくれ、導いてくれるようである。

常に心にとめておくことで、それが積み重なると、進歩、上達があることになるだろう。気ままに単発でやるのは、底の浅いものしかできないだろうし、何も助けてくれないようである。

合気道でも何でも、常に心をとめておくことにより、最後に悔いを残さないような結果を得ることができるのではないかと考えている。