【第270回】 人の話を聞く

人が年を取っていき、そして死んでいくのは、皆同じであり、それを変えることはできない。これは人の宿命であり、宇宙の法則であり、どうすることもできないものである。

しかし大事なのは、年を取ってから、お迎えがくるまでの、生きるプロセスである。年を取るにしたがって、若い頃とは違ってくるし、いろいろと衰えてくるものもある。特に体力、視力、聴力、感覚、持久力、吸収力、記憶力、理解力、回復力などなど、どんどん衰えて来るだろう。

人により大小、早い遅いはあるが、自然の成り行きなので受け入れていくしかない。できることとしては、その流れをなるべく小さくすることや遅くすることしかない。

年はなるべく取りたくないと思うのが人情であろうし、自分はまだ老人(最近は後期高齢者という)にはなっていないよと思いたいものである。しかし、他人が見る目と、本人が思っているのとはギャップがある。このギャップを外から見ると面白いものだが、ご本人にはお気の毒であるし、悲劇といってもよいだろう。

他人に接して、ああこの人もご老人になってきたなと思うのは、その人がこちらの話を聞かないで、自分の話ばかりするようになった場合である。こちらが話をしてもよく聞かないで、自分の考えをとうとうと述べたてる。自分の考えがいかにすぐれているかとか、社会や政府はだめだ、あれもだめだ、これもだめだ、ということばかりいうのである。批判はするが、それなら自分としてはどうすればよいと思うのか、どんな解決策があるのか、などという前向きの話は出て来ないので、聞いているのもしんどいのである。

人の話を聞かなくなるというのは、老人の兆候であるといってもよいだろう。人の話を聞くということは、自分にとって新しい情報を入れるということであるから、人の話を聞かないということは、新しい情報を拒否するわけである。つまりは、自分は最高で間違いはないから、自分の中にあるものだけで物事を処理するということだろう。

人の話を聞かない、他を拒否するということは、外からの情報やアドバイスも受け入れないということだから、おそらく書物も読まないだろうし、また合気道の稽古でも、他人の言葉に耳を傾けず、他人の技から学ぼうともしないだろう。

年を取ってくれば、長い人生経験から自分の価値観や人生観を持っていることだろう。ものの善し悪しや、やるべきこと、やってはいけないこと、どうすべきなのか等は、大体それで判断できるであろうし、そうしなければならないだろう。おかしな話に乗って後悔しないように、自分の判断基準をしっかり持つ事は大事である。

しかし、自分には自分の考えがあるから、もう人の世話になる必要はないし、人の話を聞かなくてもよいということにはならない。

自分のしっかりした考えを持つ事は必要だが、それが絶対ではないはずである。たとえ、それが正しい、立派なものであったとしても、完全ではないはずだし、さらに磨きをかける必要もあるはずだ。そのためにも、人の話を聞き、書籍や自然からも、できるだけ多くの事をさらに学んでいかなければならないだろう。

学ぶ意欲があるというのは、つまり、自分はまだまだ分かっていない、だからもっともっと学ばなければならない、と思うことである。これが、「若い」ということであろう。

「若い」ということは、まだまだ自分が成長しなければならない、学ばなければならない、やることが沢山ある、と思って、精一杯に、一所懸命にがんばることだろう。これは、年齢とは関係ない。

最近は、できあがってしまった年の若い「若年寄り」が増えているようである。だから、年を取った「若者」だって、いてよいだろう。その為にも、まず、人の話をよく聞くことにしたらよいだろう。