【第267回】 情 熱

人は情熱が湧いてくるものを持つと幸せである。それは人により、年齢や環境により変わってくるだろうが、その情熱を沸かし続けられるものを持っていれば更に幸せだろう。それは例えば、趣味とか、ライフワークとか、使命というのだろう。

合気道の稽古人はその意味で幸せだ。情熱が湧くものを持ち、その情熱を沸かし続けられるはずだからである。

しかし現実は、その情熱が湧くものを見つけて実行するのも、その情熱を沸かし続けるのも容易ではない。譬え、合気道に情熱の湧くのを見つけても、稽古が出来るためには幾つかの条件が満たされなければならない。一つは、時間が取れなければならないという時間的条件。二つ目は、月謝や交通費や用具代などが支払えるという経済的な条件、三つ目は、稽古に耐えられる身体的条件等である。この内の一つの条件でも満たされなければ稽古は出来ないことになる。

また、これらの条件を満たせて稽古を始めても、当初の情熱を沸かし続けるのは容易ではないはずである。それは現実が証明している。もし、すべての稽古人が当初の情熱を持ち続けていたとしたら、誰も止めることはないだろうから、稽古人はどんどん増えているはずだが、現実は多くの稽古人が止めていっている。止める最大の理由は、合気道への当初の情熱を失ったからといえよう。

情熱を失うのは合気道の所為ではない。過酷な言い方だが、本人の所為である。つまり、本人が、情熱を沸かし続けるはずの合気道の真の姿を見ることができなかっただけのことなのである。唯、合気道の基本技の形をなぞっているだけでは、それは見えないのである。

情熱がなくなれば、合気道の稽古からどんどん遠ざかったいくことになるから、稽古を続けるためには情熱を持ち続けなければならない。情熱を持ち続けるためには、道に則った稽古をしなければならない。合気之道である。この道を外れれば、横道や邪道になり情熱は失われることになる。道に乗れば、前進があり、究極の目標が見えて来る。新しい発見があり、自分が分かってくる。そしてそれらをますます知りたくなり、情熱もどんどん大きくなってくる。
そして情熱の続くかぎり頑張ろうとする。
お迎えが来るまで情熱を沸かし続け、頑張りたいものである。