【第265回】 呆けずに元気

最近は、呆け老人が社会問題になっている。呆け老人は今に始まったことではないはずだが、大きな問題になっているのは、その数と、それに伴う医療費や介護の問題がわれわれ一人一人に関わってくること、それに自分もそうなるかもしれないという不安を持つからだろう。

かつては大家族とか地域の結びつきがあって、老人の面倒をみたりしたとか、また50,60歳などで早死にする人も多く社会問題にならなかったとかいわれている。だが、現在は核家族が多いし、100歳まで生きる長寿時代になっているのだから、呆ける人が増えることも自然だろう。自分が呆けたくなければ、呆けないようにするしかないだろう。

呆けというのを自分の意志で制御できなくなると解せば、呆けには脳の呆けと肉体的呆けがあると思われる。呆けが問題なのは、脳の一部や肉体の一部が機能不全になるが、その他の部位が元気に機能しているということにあるだろう。

脳でも肉体でも、一部でも機能停止したならば、その他もすべて機能停止してご臨終となれば、頭が呆けているのに元気に徘徊したり、体が動かないのに脳だけが生きている植物人間にはならないはずである。現実は、一部が呆けているのに、他が元気に活動しているので問題になるのであろう。

合気道は健康によいからといって、稽古をしている人は多い。それは正しいといえるが、稽古に通っているから健康が保証されるわけでもないだろう。稽古の仕方や考え方によっては、稽古をやらなかった方が健康で長生きできる人だっているようにも思える。

だから、合気道の稽古をすれば決して呆けないなどと保証できない。しかし、私は合気道は健康によいし、呆け予防にもよいと信じている。要は、稽古の仕方と考え方によるということである。

体が呆けないようにするには、体を遣うことである。人間は年を取ってくると、体を遣うのがおっくうになって、動かなくなるし、できるだけ楽をしようとするものだ。そうなると、ますます体が固まってきて、家に閉じこもり、寝たきりにもなりやすくなる。

稽古をしている内は、体は呆けてはいないといえる。受身で転がったり、倒されて起き上がったりするので、稽古ができるうちは体は呆けないだろう。受身を取っているうちは、健康で正常といってよいだろう。しかし、受けを取らなくなってきたら、呆けがはじまるかも知れない。

一般的に呆けというのは、脳が正常に機能しないことである。脳への刺激が少なくなると、脳はこれ幸いと働くのを停止するのだろう。だから、脳に刺激を与えれば、呆けないということになるはずだ。

合気道では、手や腕を持たせたところから技を掛ける稽古が多いが、これは呆け予防には最適な稽古といえるだろう。なぜならば、手の刺激は脳に直結しており、脳の刺激にもなるからである。脳は手からの感覚を入力し、その処理を判断し、そして、手に出力の指示をするという。

脳は手と同じように、体のすべての部分と結ばれているが、そのような各部位が脳を占める内では、手の部位が脳を占めている割合が特に大きいそうである。(『脳のシワ』養老猛著)

従って、手を遣うという事は、脳に占める大きな部位を刺激することになり、呆けを回避するのによいのではないかと思われる。合気道の稽古でも、手をしっかり掴ませたり、手を遣って技を掛けて稽古をすれば、呆け防止になるのではないだろうか。

それよりも、稽古をしていることが、頭も働き、体も働いているわけだから、呆けてないことになる。稽古ができるかぎり、呆けてないことになるから、呆けたくなかったら、生きている間は稽古をすることであろう。

稽古ができなくなったら、この世とおさらばできるのが一番よい。
「あのご老人、ここ数日稽古にお見えになりませんが、どうしたのでしょうか」「あの方は、先日亡くなりましたよ」 
というようになりたいものである。