【第260回】 何も起こらないのが幸せ

人は何か新しいことを求めて生きており、同じことしか繰り返さない日々は退屈だと思うらしい。特に、若いうちはその傾向が大きいようだ。

退屈とは刺激がなく、エネルギーがあまっても発散するところがなくもやもやする状態で、特に若者はこれを嫌う。だから、多くの若者は有りあまるエネルギーを何かにぶつけて、何かを得、自分を変えていこうとする。中には、残念ながら間違った方向にエネルギーを使ってしまい、社会に迷惑を掛けてしまう者もでてくる。

年を取ってくると、以前ほど変化を求めなくなる。変化というのは違ったこと、新しいものを求めるということで、合気道的に云えば、面的な横への拡大と言えよう。年を取ってくると、面的な変化にはあまり興味がなくなり、ひとつまたはこれはと思うものを深く掘り下げていく、縦の方向に興味をもってくるといえよう。

自分のエネルギーの量も分かってくるし、残りの人生も多くないこともわかってくるので、無駄なく効率的にやっていこうとするのもあるだろう。

年取ってくると、若者のように変化を望まなくなるから、できる限りあるべきものがあり、来るべきものが来てくれることを望むようになる。

それに、若いときはあまり気にも留めなかったことや、見えていなかったことに気がついてきて、それが喜びとなる。

朝、雀のさえずりが聞こえ、電車が通過する音が聞こえると、今日も何事もなく順調であると、気持ちよく朝を迎えることができる。子供たちの話し声が聞こえたり、蝶々が草花の上をひらひら飛んでいるのを見たりすると、平和で幸せだとつくづく感じるし、この平和な自然をずっと残していきたいものだとつくづく思う。

合気道の稽古でも、年を取れば目先の目新しいこと、奇抜なことなど、量的平面的な拡大を追い求めるのではなく、技を垂直に堀り下げる質的拡大を目指す稽古をすべきであろう。奇抜な技や応用技よりも、基本技を掘り下げる稽古に熱中するのがよい。

技は、あるべき姿でなければならない。変えてもいけないし、変わってもいけない。あるべき姿を、後世に伝えていかなければならないと考えている。

自然も合気道も形を変えないで、このままのよい形で、次の世代にも伝えていきたいものである。これが我々高齢者の役割であろう。