【第256回】 気持よく

合気道の稽古においても、若い内は肉体を鍛えることに熱中し、そしてそれに快感をもつ。筋肉痛は気持がいいものだし、生きているという実感がした。体のどこかに筋肉痛がないと何か寂しくなったものだ。

しかし、年を取ってからもそんな稽古をしていたら体はバラバラになってしまうだろうし、筋肉痛が気持いいどころか、数日間、苦しまなければならないだろう。

勿論、若いときの、肉体を叱咤激励する稽古には意味がある。肉体が鍛えられるほど、自分の可能性が増えてくるからである。しかし、若いということは、稽古にしろ、生きていくことにしろ、まだまだ真理がわかっていないということでもあると思う。もし、20歳なり30歳なりで若くして真理がわかり、それに専念するようなら、それはもう若いとはいえないだろう。しかし、通常は50,60歳まで、真理が分かっていない鼻ったれ小僧の若者であろう。

生きることや稽古の意味がぼちぼち分かってくる頃には、年も取ってくる。いつまで稽古を続けられるか、いつまで元気でいられるか等と、だんだん考えるようになってくる。そして、残りの時間を有意義に送りたいと思うようになる。

有意義にということは、最後の瞬間に後悔しないようにということと、残りの時間を少しでも気持よく過ごすということになるだろう。

年を取ってきたら、合気道の稽古でも、最後のときに後悔しないためにも、気持よくやっていくのがよいだろう。それは、それほど難しいことではないはずである。なぜならば、宇宙の法則に則った合気道の鍛錬技は、心身が気持よくなるように創られているはずであるからである。愛に満ちた宇宙が人に害するようなことはするはずがない。もし技の稽古をして気持がよくなかったなら、何かが間違っているはずであるから、自分で反省しなければならないことになる。

特に技の練磨の稽古が終わったときなどは、気持がいいはずである。まず、体の節々のカスが取れて、筋肉が伸び、そしてまた引き締まり、柔軟になっているはずである。手首、肘、肩、胸鎖関節、足首、膝、股関節などのカスは、多少でも取れているはずである。

中でも一教、二教、三教はカス取りの技と言われるぐらいだから、大いにカスが取れる。合気道には、手指の3つの関節のカスを取る特別の技はないようだが、一教腕抑えや二教を掛ける際、指に力を集中してしっかり抑えたり、また手を持たせたり、手刀を遣う際、指をしっかり開けば、指の関節のカスは取れていく。

しかし、ただ技を掛けていれば、関節のカスが取れるということではない。カスが取れるように、鍛錬しなければならない。カスが取れるような鍛錬とは、自分の限界を一寸は越えるものでなければならない。自分の限界内でやっていてもカスは安住し続ける。だから、多少痛いだろうが、少しだけ我慢しなければならない。

合気道の技、そして最後の決めや抑えは「順」であるから、曲がる方、伸びる方へ力が加えられるはずだ。だから、多少締められてもけっこう我慢できるし、怪我などもしないはずである。

カスが取れると、その時は痛かったり、どうなるか不安もあるだろうが、その後はその部位と関係部位が軽く、気持よくなるものだ。もちろん汗をかいて体がきれいになることによっても気持よくなり、気持のもやもやも発散できてすがすがしくなるためよい気持にもなるのだが、もっと気持よいものがある。

大げさに言うと、生きているなあと実感するような気持のよさである。肉体的にも自分の体重を感じ、地球の引力を感じて、自分は地球の上に確かに存在すると感じられることだ。稽古の後で、帰路につく歩みでのこの感じはこたえられないだろう。

このいい気持は、主にハムストリング辺りで感じるようである。稽古によって、関節のカスがとれて、体全体がリラックスすることによって、体重がハムストリングに乗る。自分の全体重を気持よく感じながら歩いていくと、体が地球の引力と結んでいるという感覚になる。この、地球上にあるという感覚が、今のところ最高にいい気持と思える。だが、きっとそれ以上のいい気持が合気道の修行の先にはあるのだろう。そのいい気持のためにも、修行を続けていきたいものである。