【第253回】 急いては損

世の中ますます忙しくなってきている。これは大分以前から言われているわけだから、忙しさは加速度的に増していることになる。とりわけ人が多く集まっている都会は目がまわるようだ。

高度成長がはじまったころから世の中も人も忙しくなってきたと思うが、当時と今の忙しさの違いは、一つはその速度だが、もうひとつは、お年寄りまでが忙しくなってしまったことではないだろうか。

お年寄りが道を歩くにも、若者には負けないぞと言わんとばかり、せかせか歩いているし、赤信号でみんなが青になるのをまっていても渡ったり、映画館で映画がまだ終らないで出演者紹介のタイトルが流れているのに、慌ただしく席を立つのも足元もおぼつかないような後期高齢者のお年寄りが多い。

仕事で人と約束があるようでもないし、急ぐような一刻を争うようなことがあるとは考えられないのに、本来、時間に関しては十分過ぎるほどあるはずの人が急ぐのは滑稽であると同時に、死に急ぎしているようで哀れにも思える。

数年前にトルコのイスタンブールにいったとき、感銘を受けたことの一つに、老人の振る舞いが、ゆったりとしていたことである。街を歩くにも普段着の民族衣装を着て、自分のテンポで、人が追い越そうが関係なく、ゆったりと、そして重厚に歩いているのである。飲食店でも、どっかと腰を下ろしている。そこには長年生きていた証しと威厳と貫録と自信があり、まわりの人もそれを評価し、尊敬しているようで気持のいいものであった。

長い人生の経験があり、知恵もそして時間もある高齢者は、人生というものがそろそろ分かってくるだろうから、バタバタすることもないだろう。若者と競争したり、若者の真似などしないことである。自分は若いのだと思いたいだろうが無駄なことだろう。いい結果もでないだろうし、後できっと後悔するだろう。

かつては日本にはあったはずの老人の威厳、貫録、自信というものを取り戻して欲しいものだ。若者もそのような高齢者を待ち望んでいるはずである。

仕事をリタイアすれば、例外もあるだろうが、一般的には時間など余裕ができるはずである。もう急ぐ必要はない。特に、我々合気道家は、生活はもちろんのこと、歩くにも、稽古をするにも急いだり、慌てたりしないよう心掛けなければならない。急いては事を仕損じる。

急いてしまうということは、小さな目的をきめてしまい、それだけをなんとかやっつけようと思ってしまうということである。歩くのも、例えば少しでも早く目的地に着きたいと思って歩くことである。時間がたっぷりありそうな老人が急いで歩いているのは、まわりから見れば滑稽である。しかし、それを本人は気がつかないから、可哀そうにも思えるのである。

身近な目的だけで動くと、動くだけでまわりや他が見えにくくなる。歩く場合も、急いてあるけば、周りの景色や人や季節の変わりなど見えないし、物事を考えたり、哲学することも出来ない。その歩いた時間は、自分の移動に使っただけで、本来、知覚したり、認識したり、思考したりできることをやれないことになる。

合気道の稽古でも、相手を倒すことを目的にして稽古してしまえば、その技の過程を楽しむことを出来ないし、その過程にある大切なものを得ることも出来ない。これも急いては事を仕損じるだろう。

技を早く遣っても、早くはできない。急いてやっても得るものは無いか少ない。早い技遣いがしたければ、まずゆっくりやることである。ゆっくりやることができれば早く出来る。
ゆっくり出来るということは、技の形が正確であり、力と気持が切れないということである。ばたばたやるのはそれらを誤魔化してしまうことになる。