【第252回】 夢にもどる

合気道を始めるにあたっては、誰でも夢を持っていたのではないだろうか。合気道をやれば、大の男がかかってきても、ちょいと投げ飛ばしてしまうとか、相手が触った途端に投げ飛ばせるようになる、という夢である。私自身もそう思っていた。もちろん、そのためには厳しい修行は覚悟していた。

しかしながら、誰もがその夢をだんだん失っていくようである。現実の稽古はそんな甘いものではなく、打たれたり捻られたりしてアザができたり、筋肉痛になったり、人を投げることはそんなに容易でないということを思い知らされる。そのうちに、夢は所詮、夢だったと思ってしまうようになる。

何も知らないうちは夢を持つことができるし、どんな夢でも持てるが、自分がその世界に足を踏み入れると、その夢は現実に消されていくようである。

入門した時の夢は、稽古を続けていくに従って忘れるといってもよいだろう。しかし、それは意識しなくなるということで、心のどこかにはその夢を持ち続けていたようにも思える。なぜならば、自分のかける技が夢の方向を目指して変わってきているからである。

例えば、はじめは相手の手首を捻くり回して掛けていた二教も、相手が触れた瞬間に掛かるようにしてきたし、相手とは少しでも少ない接触で技がかかるよう変わろうとしてきている。つまり、初めに持っていた「夢」が、目標になっているのである。稽古は誰でもそうだろうが、初めの夢に向かっており、夢の反対を目指している人は誰ひとりいないであろう。

半世紀も稽古をしていると、年も取ってくる。若いときのような馬力やスタミナは無くなったが、次第に技(技要素)を身につけて来ている。

夢を忘れていたが、無意識ではその夢を追っていたようである。つまり、相手に触れずに、気合いで飛ばすということである。実際には、相手に触れずに投げ飛ばすことなどまだまだできないだろう。でも、いい。夢だから。まあ、漫画を読んだり、アニメを見ているようなものだ。自分がそうなればいいと思うが、到底できないのが夢であろう。

若い内は、夢を持ち続けながら稽古するのは容易ではないだろう。だが、年を取ってくると、その夢を膨らませることもできるようである。高齢になるにつれ、体は自由に動けなくなってくるかもしれないが、気持は自由になる。初心のときの夢にもどり、夢を追い続けていきたいものである。