前回の『自己使命』で書いたように、人はみんな宇宙生成化育のため、そして地上経綸完成のために、自己使命をもって生まれてきたのだと思う。
合気道を自己使命として修行するものは、宇宙の条理、宇宙の真理を把握し、それを更に探求し、後進に伝承していかなければならない。それが自己の使命であり、人生の勤めである。これを開祖は、「吾人は万有万神の律法を明らかにし、宇宙の真理を把握し、身を以って自己の使命に当たり、地上経綸完成のため、人生の勤めを達成せねばなりません。」(『合気道新聞 第1号』と言われている。
そして、そのためには「至誠の道」を練磨しなければならない、と開祖は言われる。「至誠の道」とは、宇宙のこころを忘れず、自己を知る自己完成の道であるという。
合気の道は至誠の道でなければならないわけだから、この道で自己完成が計られていかなければならいことになる。合気の修行を続ければ続けるほど、少しづつでも自己完成していかなければならないのである。稽古を続けても、自己が変わらなかったり、退化するようでは、至誠の道である合気の道を外れたことになる。
合気道は宇宙完成、宇宙生成化育のお手伝いをする道であり、世の完成を望むものである。そのためには、人の自己完成とともに、後進への伝承も重要である。しかし、それは容易ではない。
なぜなら、一つは完全な自己完成などないことである。せいぜい、命の最後の瞬間が完成に一番近いと言えるかも知れないが、それでは後進に伝承などできないことになる。或る程度のところで妥協して、伝承しなくてはならないことになる。
二つ目は、世の完成のために、自分の合気の技や知識を後進に伝えることを使命と思ってやろうとしても、それが後進に正しく伝わらないことである。伝わらない理由の一番大きいものは、後進のレベル以前に、こちらのレベルがまだまだ低いから伝えきれないということである。自己完成できていないから、当然と言えば当然である。
しかし、後進は自己完成した人だからとか、技や思想のレベルが高いからだけで、教えを乞うわけではない。大事なのは、伝えようとしていることの方向性や目標であるのではないか。つまり、道を示し、導いて欲しいのである。例えば、稽古は切った張ったではなく、世の完成とか世直しのためにやっているかどうか、というようなことである。
もう一つ大事なことは、修行を喜びをもってやっているということであろう。苦虫を噛んだような顔をしていやいややったり、気を入れないでやったりせず、稽古をやっていることに幸福感をもち、嬉々としてやることである。自分のミッションを嬉々としてやれば、その使命を与えた宇宙も喜んでくれるはずであり、引いては周りにある人も気持ちがよくなり、一緒にやろうと思うだろう。
これを開祖は、「世の完成を望む者は、自己も又幸福なる完成をせなくては人の真のつとめは望めません。」(同上)と言われている。
結局、自分のミッションは喜びをもってやることが、後進にそれを伝えていくことになるのではないだろうか。
参考文献 合気道新聞 第1号