【第241回】 無駄なことをしない

人は若いうちはみんな元気であるし、体を目いっぱい使おうとしている。齢が低ければ低いほどその傾向があるようだ。赤ん坊などはその典型で、体中を動かしているし、幼児も体をふらつかせながらも嬉々として、体全体で歩き回っている。合気道の演武会で低学年の子供の演武を観ても、手を目いっぱい振りまわし、体全部を遣ってやっている。合気道的、武道的にみれば、元気だが無駄な動きだらけということにもなる。だが、これを見ていても自然に感じられるし、違和感はない。

合気道の稽古でも、子供たちを含め初心者は手を振りまわすなどの無駄な動きが多い。これを無駄がだんだん少なくなるようにしていかなければならない。なぜなら、合気道は「真善美の探求」であるといわれるからであり、少なくとも美しくなければならないからである。

ここでの「真善美」の三つの言葉は、各々同じことであるはずだ。例えば、真は善と美、善は真と美、美は真と善をともなって、表裏一体でひとつになっていると考えると、合気道は技の鍛錬を通して、無駄なく、美しく、真理をもち、正しく探求していかなければならないということになる。そうすれば説得力が生まれ、人が共感し、大自然が共鳴するようになる山彦の道を進むことになるからである。

合気道は技の練磨を通して、無駄のないように技を遣っていかなければならない。無駄とは、多過ぎない、やり過ぎない、不要なことがないことである。例えば、手を振り回したり、手で押したり引いたり、腰や体をひねったり、後ろに下がったり、また、中心線を1cmずれたり、反転の角度に1度の過不足がある等である。

また、物事に気を入れてやらない、自分の限界に挑戦しない、お座なりにやることは、無駄なことをしているということになる。さらに、目的がないことをしたり、目的にそぐわないことをするのも無駄であろう。

無駄か無駄でないかの基準は、一言で合気道的にいえば、宇宙の条理、大自然の法則に則っているかどうかということになろう。それから外れている分が無駄ということになる。

無駄なこととは、時間的および空間的なつながりがなくて、切れていることともいえるだろう。例えば、手足の動き(個)と体(全体)、手足とつながっている体(個)と大自然(全体)、などがあげられる。この個が全体とつながらずにバラバラに動けば無駄な動き、無駄なことになる。
そして、個は全体のために機能し、全体は個のために働けるようにしなければならない。例えば、相手に持たせた手を体につなげ、その手で技を遣えば体が鍛えられるし、鍛えられた体からは大きな力が手に伝えられて、技が遣いやすくなるということである。

個と全体はぜんぜん関係ないようでも、個と全体がつながっていれば、個のためにも、全体のためにもなる。例えば、絵を見たり音楽を聞いたり(個)することは、合気道の精進(全体)につながるはずである。というよりも、少しでも多く、できればすべての個と合気道の精進(全体)とをつなげることができれば、こんなに素晴らしいことはないはずである。世の中に無駄なものがなくなることになるからである。

前述のように、若い内は、自分の求めるべき全体を探しているが、探しきれないのであろうから、個とむすびつけることは難しい。年をとってくれば、自分の求める全体性を持てるようになってくるであろう。合気道の稽古にも目標(全体)ができるはずだから、自分の遣う技や体遣い(個)がそれにむすびついているかどうかに注意して、無駄のないような稽古をしていけばよい。