【第24回】 生きている証しのために

江戸時代に、武士はいわゆる武芸十八般を嗜んでいた。武芸十八般とは、普通、弓術・馬術・槍術・剣術・水泳術・抜刀術・短刀術・十手術・銑〔金見〕 (しゆりけん)術・含針術・薙刀(なぎなた)術・砲術・捕手(とつて)術・柔術・棒術・鎖鎌(くさりがま)術・ 〔金戻〕(もじり)術・忍(しのび)術をいう。また、武士はこの他にも、文武両道といって学問もしていたのだ。(注:〔〕内は一文字の漢字)

昔は、武士の仕事の目的は戦いに勝つことであるから、戦いで想定できるすべてのことをやっておく必要があったわけである。
世の中が平和になって落ち着いてくると、得意なもの、好きなもの、どうしてもやらなければならないことに限られてきて、武芸の数も十八般から数般になり、広く浅くから狭く深くなってきたといえよう。武術の内容も単純化してくる。例えば、柔道はそれまでの柔術と違って、組んでから始めるということになり、組む前の技や動作が省かれてしまった。因みに、合気道には、この組む前の技があるわけである。

合気道は、以前の武術や武芸と違い、戦いのためのものではないが、稽古のやり方としては、戦いのあらゆる場面を想定して組み立てられているし、そのように稽古をしなければならない。相手が掴んでくる場合、打ってくる場合、突いてくる場合、また、複数の敵に囲まれた場合や、相手が武器で攻撃してくる場合に備え、さらにこちらに剣や杖や短刀があれば、それを使いこなすことができるようにもするのである。従って、合気道は何でもできなくてはならないし、何でも使いこなさなければならないので、総合武術、総合武道ということになる。

いったいに世の中は単純化していっている。物事を細かく分類し、その内のひとつに特化し、専門化する傾向にある。専門化というのは、よくいって専門家になることともいえる。しかし、現代人は自分が「機械の一部」「歯車のひとつ」になると嘆いているのである。
人は本能的、無意識のうちに文武両道でありたいし、広い知識を持ちたいし、強くもありたいとも思っている。小学校からの学生時代では、勉強ができて運動も得意な子がもてたものだ。

合気道は総合武道である。体術もあれば武器術もある。また、合気道にはこれからの世の中が必要とするであろう哲学、科学、宗教観、芸術性などもある。修行をすればするほど研究分野は広まり、いくらでも深く追求できるものである。合気道の修行を続けて、世の中の傾向である「単純化」を阻止したいものである。