【第233回】 競争から共栄へ

世の中は豊かになってはいるようだが、その豊かさは人をそれだけ幸せにしていないようである。世界でも、国の内でも、社会の中にも、豊かな人はいる反面、そうでない人も沢山いるし、また、豊かになったからといって、本当に幸せになっているとも思えない。豊かになれば人類は幸せになるという考え方は、軌道修正が必要になってきたのではないだろうか。

豊かになろうとすると、他に勝たなければならないという競争原理が働くことになる。国も社会も学校も右へならえで、競争原理で機能することになる。結局、競争するのは人間であるから、人間が競争し合うことになる。その人間のいる領分が他の領分に勝つために、必要なことの出来る人を、優秀な人材としているのである。この人が勝ち組で、その基準に合わなかった人たちは負け組となるわけである。また悲しいことに、その勝負の基準が、どこでも同じで金太郎飴のように均一化しているということである。

そこで、人は、特に、日本人は、その見えない基準に合わせるべく、学校でも、それ以外の時間でも頑張っているので、ますます金太郎飴化していくように見える。

学校や社会で金太郎飴化した勝ち組はいいだろうが、負け組みは悲劇である。自分のいる会社や社会から認めてもらえないのである。この悲劇の負け組みは人数が増えるとともに、経済的そして心理的打撃はますます大きくなっているように見える。そして最近では、自暴自棄の犯罪や親殺しや自殺が多発している。何かが根本的に間違っているはずである。

同質のものには優劣があるし、同質だからこそ優劣が決められる。スポーツは勝負が出来るように、優劣が決められるようルールを決めて同質にするわけである。武道にはルールはないし、つくれない。ルールをつくってしまえば、もはや武道ではなくスポーツになってしまう。

人間は本来、一人として同じ人はいない。たとえ双子や三つ子でもどこか違っている。人間をつくった創造主は、ロボットのように同一の生物をつくるより、みんな違ったものをつくった方がいいとの思いから、我々をつくったはずである。それを同質に、金太郎飴化するのは、その意に反することになり、不自然であり、正しくないことになるだろう。

創造主は何らかの目的のために、人間をつくったとしたら、そのために人には異なる能力や才能を与えたはずである。試験に強かったり、国家試験に受かったり、計算に強かったり、語学の才能があったり等々の能力をもつ人もいるだろうが、そういう才能はなくても、特別な感覚をもったり、おもしろい発想をしたり、空想力が豊かだったり、人や生き物にやさしかったり、体が丈夫で風邪など引かない等など、学校や会社が採用する基準ではあまり考慮されない人たちがいるのもよいだろう。

人は誰もが長所や特徴を持っている。どの他人を見ても、自分より優れている部分が必ずある。合気道の稽古をしていても、どんな未熟な稽古相手にも、自分より優れているものがあり、これは参ったと思うものである。その逆もあって、強い先輩であっても、とても敵わないがこの点では負けないぞというものがある。完全な人間などいないのだから当然だろう。

勝ち組といわれる人達は、勝って豊かになったのだから、すべて負け組より優れており、自分達はオールマイティと考え、負け組の長所を認めないところに問題があると思う。負け組も気の毒だが、勝ち組も損であろう。負け組の人達の優れているものに気付き、自分に取り入れていけば、自分にもプラスになるはずだからである。皆が短所をけなし合うのではなく、長所を認め合っていけば、お互いどんなに気持ちよく暮らしていけることだろう。

社会も短所を見て、その人を切り捨てていくのではなく、長所を認めて、社会に役立ってもらうようにしたらよいと思う。欠点(例えば、悪い点数)で人をふるいにかけるのではなく、誰にでもある長所を認め合っていけば、誰もが尊敬し合えるはずであり、そうすれよい社会、よい国、すばらしい世界ができるのではないだろうか。

もしこれができれば、合気道が目指し、我々がお手伝いをしなければならないところの地上楽園、そして創造主が意図している宇宙生成化育に、少し近づくことになるだろう。