【第206回】 早く来い来い10年後

今、大方の人は年を取りたくないと思ったり、年を取ることはマイナスであると考えているようだ。その証拠に、手術や化粧で若く見せようとしているし、若くすることがビジネスにもなっていることでもわかる。反対に、実際より年を取っているように見せるような化粧品も薬もないし、あったとしてもビジネスにはならないだろう。

今は、若者文化と言える。知識とパワーの文化である。新しい知識を持ち、金や物や体のパワーを持った者が、それを持たないものを牛耳っている文化、社会と言えよう。

知識やパワーを持ちやすいのは若者である。若者は、そういうものを得るためのエネルギーもあるし、時間もある。それに、それを得れば幸せになれると信じることができる。

年寄りは、新しい知識を身につけるのは難しいし、パワーもなくなってくる。だから、年寄りは社会の隅に追いやられてしまうことになる。

だが、若者も年を取っていく。新しいと思っていた知識は古び、強かったパワーも衰えてくる。本人は違うと思っても、自然が許さない。年を取ること、知識が古びること、パワーが衰えることを、早いところ認めた方がよい。認めて、それに代わるものを見つけた方がよい。いつまでも若さに頼ろうとすれば、それに代わるものも見つけられないし、先へ進めないことになる。いずれ老いは、誰にでも必ずやって来る。

若者の知識とパワー文化の対照となる文化は、年寄りの知恵の文化ということが出来るだろう。これからは日本だけではなく、世界中が高齢者社会に入っていくはずである。社会も文化も、年寄りの知恵が若者のパワーの上に来るようにならなければならないと考える。

祭りなども、力持ちの若者だけがいればできるものではない。継承される伝統を受け継ぎ、血気盛んな若者をまとめる知恵と経験のある年寄りがいなければできないものである。祭りで年寄りが若者をまとめ、いろいろと指図しているのを見ると、まさにこれが年寄り文化、知恵の文化であると、いつも感動する。

スポーツは若者文化であるといえる。80歳、90歳は勿論だが、60歳、70歳で世界選手権やオリンピックで優勝すると聞いたこともないし、今後もないだろう。逆に、優勝者の年齢、選手の年齢はより若くなっているはずである。

合気道は若者文化であってはならないし、パワーの文化であってはならないと考える。年を取れば取るほど上達し、深く理解できるようにならなければならない。

合気道は5年や10年で分かるようなものではないし、30年、40年やったから完成するものでもない。合気道の知識ならすぐに身につく。若者でも、身につけることができる。しかし、知識で技は上手くならない。合気道や武術の歴史や概要が分かっても、技の名前を覚えても、技の手順を覚えても、自分の技に反映されなければ、知識として止まってしまうだけである。

合気道の修行では、知識より知恵が大事だろう。知恵とは、精進するため、または生きるために必要不可欠の深い知識ということができるだろう。これは長い年月をかけて精進しなければ身につくものではないが、やれば年を取ってくるに従って、身についてくるようである。

合気道の稽古で知恵がついてくるということは、宇宙の法則を知り、宇宙の法則に適った技を遣えること、自分は何者なのか、何処から来てどこへいくのか、自分の使命は何かなどが見えて来て、それを追及するようになることではないだろうか。合気道の精進をしていけば、そのような知恵がついてくるようである。

少しでも新しい知恵がついたり、知恵が深まるのはうれしいものだ。誰のためでもなく、自分の為であるが、楽しいものである。完全な知恵の会得などないことは分かっているが、それでも完全を目指すのだから、悲劇といえば言えないこともない。それがロマンであろう。

昨日より今日、去年より今年と、少しでも知恵がついたら、来年、再来年、5年後、10年後も期待できそうだ。とすれば、5年、10年後の自分が楽しみになる。

「早く来い来い10年後!」ということだ。年を取るのが楽しみになるし、待ち遠しい。