【第174回】 次元

武道は素人であっても、武道的に見て、とても敵わないだろうと思う人がいるものだ。隙をついて攻撃したら、と考えても出来そうもなく、後から首を絞めたとしても、全然締まらないだろうなと想像する。話をしようにも、圧倒されて出来ないのである。物事を知っているだけでなく、モノの見方、捉え方が全然違う。こちらの狭く浅い見方、考え方まで見通されてしまうようである。

まともに目を合わせることも出来ず、お話をただ黙って傾聴し、相手になんとかついて行こうとするのが精いっぱいである。格が違いすぎるのである。ビジネスの世界でも、苦労した大会社の社長などは、若いサラリーマンとは格が違って、人を圧する風格がある。見つめられただけで、こちらは委縮してしまうものだ。

格が違うということは、次元が違うことである。真剣に生きてきた結果、様々な経験や苦労を重ね、自分を鍛え練った結果できたものであろう。経験や苦労や努力によって、人の次元は違ってくるのだ。とりわけ、死に近い体験をするとか、死を意識したり感じたりする経験をすると、次元が違ってくるようである。

人の次元の違いは、自分で感ずる外ないようであるが、概して下の次元の者には上の次元の人がどこの次元にいるのか、分からないものだ。ただ上の次元にあるということだけが分かるだけだ。逆に、上の次元からは、下の次元がよく分かるようだ。その人がどの次元にいるのかよく分かるのである。例えば、弟子は師匠が上の次元にあるのは分かるが、どれほど上の次元にいるのか、自分とどれほど離れているのかは分からないだろう。しかし、師匠は自分の弟子がどの次元にいて、いつ頃次の次元に行けるのかは見えるものだ。

弟子は師範を信じ、憧れ、師範の教えに従い師、範に少しでも近づき、師範の次元に入ろうとする。しかし、弟子が精進しているのに、師範が精進しないと、弟子は師範の次元に追いついてしまうことになる。追う方は目的に直線で進めるわけだから、追われる方もそれより早く進まなければ追いつかれてしまうことになる。横道や脇道に逸れたら、すぐに追いつかれ、弟子と同次元、同格になってしまう。

同じ次元であれば仲間、同士であり、違う次元にあれば師匠であるが、師匠であるためには、二つ以上の次元の差がなければならないだろう。次元が幾つあって、どのように構成されているのかは明確ではないが、昇段の段位に譬えれば、弟子が六段という次元にあるとすれば、師匠は八段以上でないと、弟子は本心から師匠とは認めないだろう。なぜなら、六段というのは、五段に限りなく近く、また七段に限りなく近い段であるからである。つまり、限りなく七段に近い、または自分でそう思っている弟子は、七段の師匠と同等と思ってしまいかねないからである。

師範とは限らないが、先生や指導者は無意識のうちに、生徒とは次元の違う処にいなければならないと思っているであろう。しかし、生徒の追い上げは早いものだ。前述のように、学ぶ速度は、新しいものを開拓するよりどうしても早い。

弟子や生徒との次元の違いは保持したいが、それが難しくなると、奇抜なことで生徒の目を逸らそうとするきらいがある。徒手での修練で行き詰ると、剣や杖などの得物を駆使したり、奇抜な技を編み出したりして、弟子に自分の格の差異、次元の違いをアピールしようとする。毎年の演武会でも、そういうものを見かける。

次元は違わなければならないだろうが、やはり王道で行きたいものである。そうしなければ、高い次元へは行き着かないし、風格のある合気道は出来ないだろう。
開祖は、「合気道は摩訶不思議でなければならない」と言われた。同じ次元でやっていては駄目で、次元が違っていなければ、相手は納得しませんよということである。王道での高い次元を目指し、摩訶不思議の合気道にしたいものだ。