【第158回】 出来あがったら終わり

合気道には試合がないせいか、高齢になってくると出来あがってくる人が多くなるようだ。出来あがるというのは、自分の技はこれでいいと思うことである。頭が硬くなり、体も硬くなってしまうのである。硬くなるということは、内向きに考え、力も内向きに遣うことであり、外へ向かわないこととも言えよう。力を内向きに遣うということは、力を出さずに内に引き、頑張るということでもあろう。

高齢になると、後輩が増えて、後輩たちより技はできることになるだろう。長年稽古をすれば、誰でもそうなるものだが、それに満足してはならない。満足するのはもっと違うことでしなければならないだろう。満足は、自分が変わっていくことに対して持つものではないだろうか。

合気道には使命がある。そして、それに向かうという目標がある。合気道の技は、宇宙の営みを型にしたものといわれる。だから、技は自然でなければならない。多くも少なくもないものでなければならない。でも、そんなことを人間は完全にできるわけがない。従って、人は決して完全な技は遣えないということになる。それなのに、自分の技に満足しているのはおかしいではないか。たとえ本人が満足していても、他人はそうは思わないで、出来あがった人の判断レベルが低いと思うだけである。

他人が見て満足し、感動するのは、多少の上手もあるかも知れないが、本当の感動はその人にロマンを感じるときであろう。合気道の決して到達できないとわかっている目標に向かって、完全を目指す姿であろう。決して到達できない道を辿る姿であろう。

この合気道の目標としている道にのると、あとは目標に向かって進むだけである。前進し上達するために、様々な人、モノが支援してくれるように思えてくる。つまり、これまでと違って、全てのものに自分がつながってくるのである。自分のまわりのものすべてが、「師」となるのである。

ただし、道を進もうとすれば、それを阻むものも出てくる。それが試練である。その試練も、師ということが出来よう。その試練を乗り越えれば、また次の試練がやってくる。それに負ければ先には進めない。修行を諦めるのと同じことになる。試練の壁は素直に受けいれ、それを乗り越えていかなければならない。逃げたり無視しては駄目である。師も悲しむ。

薄い試練の壁、厚い壁があるが、一生懸命やっていると何とか乗り越えられるものだ。それまで開祖、師範、先輩などからお聞きしていたことが突然思い出されたり、本や新聞やテレビが偶然のタイミングで、考えあぐねている問題を解決するヒントを与えてくれたり、様々な支援がある。みんな「師」であり、我々の問題解決を支援すべく待機してくれているように思える。

高齢者になっても出来あがらず、いつまでも問題、課題、テーマを持って、目標に近づく努力が必要だろう。最後の瞬間が最高になるように、稽古をしたいものである。最後が楽しみである。今から出来あがってしまっては、その楽しみがなくなる。