【第144回】 もうあまり悩まない

青年の頃は、いろいろと悩むものである。ちょっとした悪戯がだれかに見られたかもしれないとか、異性のこととか、自分は何者なのか等々、悩みはいくらでもあるだろう。今思えば、そんなことを悩んだのかと馬鹿々々しくなることもあるが、当時はくよくよと、だが真剣に悩んでいたのは事実である。悩んで、その解決のために頭が堂々巡りして、解決策が見つからないものもあったが、その悩んだことが今の自分に役立ち、今の自分をつくっているようで、意味があったように思う。

いやな受験勉強を終わって大学に入ると、今度は開放されるというより、自由の社会に放逐されたような気分になった。自分の好きなことが勉強できるし、考えること、やることができるようになった。自由を制限するものは、金だけであったろう。しかし、若い頃は、金が悩みの種などにはならない。悩みとは、むしろ何も知らなかった自分というものであった。自由になって悩んだのは、自分とは何か、人生とは何かである。この悩みを持つとあとのことは余り重要でなくなる。お金も、授業も二の次になる。しかしながら、それまでの習う習慣が身について、これも誰かが教えてくれるだろうと考えていた。だが、学校では教えてくれないようだし、家でも教えてくれなかった。

それで、本にはその回答があるのではないかと思って、本屋で探す。しかし本は古本屋で探したが、教えてはくれなかった。授業も私の悩み、一番教えて欲しいことは教えてくれないので、授業は最低限だけ受け、残りの時間はこの問題解決に使った。

ある時、バイト先の学生仲間に自分の悩みをぶつけてみると、5、6人の仲間も同じ問題を持っているというのである。そこで、仲間同士でこの問題を考えるようになった。朝のバイトが終わってから、喫茶店でモーニングサービスのコーヒーにゆで卵とトーストを取りながら、人生とは何か等々を、毎日2〜3時間討論した。この討論は約一年間続いた。人生とは何かに関して議論は尽くしたので、自分たちのレベルで考えられる意見は出し尽くしたと思った。ただ、その人生とは何かという回答が、人それぞれ違うもので、自分の人生観を他人に持たせるのは不可能なことが分かった。「人生とは何か」の回答の本がないのも、万人に当てはまる回答がないからであろう。

それを通して分かったことは、自分は自分、他人は他人であるということであった。お釈迦さまの「天上天下唯我独尊」とはこういうことではないのか。

若いうちは、実力もないし、自信ももてないだろうから、天上天下唯我独尊にはなかなかなれないだろう。だが高齢者になったら、出来る出来ないは別にして、天上天下唯我独尊で行けばいいのではないか。自分は自分の思うこと、やることをやる、ということである。他人がああやっているから、自分もそうやらなければならないのでは、と思ったり、自分のやっていることは正しいのかと迷わないことである。これは自由に、でたらめにやってもいいということではない。逆に、自分に責任が被さってくるのである。自分の思うこと、やることは、自分の責任においてやることなのであり、より厳しいものである。

他人や周りを意識することで悩むのではなく、自分の気持ちに素直になることであるが、ただし自分には厳しくなってくる。他人に責任を被せるのではなく、結果、最後はすべて自分の責任であるという覚悟が必要であろう。

先が見えてきているのだから、迷わず、悩まず、好きにやっていこうではないか。