【第139回】 東洋文明で

かっての日本は、高齢者が住みやすい国であったと言えよう。今や欧米文化の影響で、若者が幅を利かせ、高齢者は社会の隅に追いやられ、高齢者に住み難い世の中になってしまった。欧米文明は物質文明であり、金や知や力がモノをいうパワーの社会である。これは若者の社会でもある。知識がモノを言う、テンポが早く、お金が掛かる文明である。

以前の日本は、知恵を大事にする国であった。経験豊かで知恵のある高齢者が大事にされ、また高齢者も世間から評価されないまでも、馬鹿にされないように努力した。近所のお年寄りでも、生きる上で必要な知恵を身につけていたので、近所の子供や自分の子供を見守るやさしさ、祭りなどの伝統を若者に継承する責任感、自然に対する尊敬と恐れ、自分を高め人生を楽しむ趣味を持っていたし、それを後進に教えることもしていたものだ。そういう高齢者を、まわりの若者や子供は大事にした。

かっての高齢者には、その社会で役割があったが、今の社会ではそれがどんどん消えていっている。まだ祭りなどで、高齢者が若者たちを嬉々として差配しているのを見ると感動するし、長く続いてほしいと思う。それが自然であり、社会はこうあったらいいと感じるからである。

今の高齢者は、若者の後を追い、若者の真似をしようとしている。世俗のどうでもいいような知識を得ようとし、金儲けをしようと株をやったり先物買いをしたりする人がどんどん増えているようだ。高齢者が数人集まってする話は、健康とお金に関わる話である。どうも聞いていて気持ちのいいものではない。いい加減に年をとっているのに、まだ自分のことにしか関心を持たず、後に残る子供たちや若者たち、地球や自然のことはどうなってもいいというのでは、無責任であるといえよう。

高齢者は物質文明、西洋文明ではなく、東洋文明で生きるのが自然であると思う。知識や金のパワーではなく知恵、自分個人ではなく次世代や社会のため、他人と比べてではなく自分のレベルアップのために生きるのがよい。人に優しく、地球や自然に優しく、自分の人生を振り返り、自分の遣り残したことはなにか、やるべきことをやり、他人に捉われず、自分の思うよう、ゆったりと生きればいいのではないか。

若者や子供は高齢者を、「我が行く道」として見ている。高齢者が満足した生き方をしていなければ、彼らは自分たちの将来に希望を持てず、自分たちの人生、さらに他人の人生も軽視することになる。彼らに将来に希望を持てるよう、高齢者はいい生き様を示さなければならない。人生を楽しんでいる、明日を楽しみに生きている、少しでも長生きしたくなる、という生き方が若者に伝わるようにしたいものである。また合気道でも、若者に、早く高齢者になりたいと思わせるような稽古姿をみせたいものである。その為には、西洋的なパワーの稽古ではなく、東洋的な知恵と魂の稽古をしなければならないだろう。

高齢者は若者のまね、欧米流でやる必要はない。もっとゆっくりと、かっての日本や東洋の気持ちで行くのがいい。人間らしく、のんびりと世俗のことに惑わされず、優雅に行きたいものである。