【第138回】 今を大事に

若い頃の稽古は力いっぱい、体力や気力の続く限りやっていたから、どんどん体と技が変わっていった。その頃は、10年もしたら相当腕をあげるだろうと思っていたものだ。若いときは未来に希望を持つものだし、持つのは自然である。というより、極端にいうと、若者は未来に期待するほかないのではないか。

高齢者になったら先が見えてくるわけだから、一般的には未来にあまり期待や希望は持てないだろうし、期待や希望を持つ意味も無くなってくる。体力や体の機能はどんどん衰えていくし、社会や世間からもどんどん遠ざかっていく。寂しい限りである。

日本人の平均寿命は、今や男性が約80歳、女性が86歳で、100歳以上の人が30,000人いるというが、この平均寿命はまだまだ伸びているようである。それでひとは平均寿命よりも長生きし、また少しでも長く生きたいと思い、ジョギングをしたり健康食品や薬を摂ったりする。

長生きも立派な技であるといえる。しかし、長生きするために生きるというのは余り意味がないと思う。そうではなくて、一生懸命に生きた結果、長生きだったということに意味があるだろう。これは、合気道の稽古にも似ている。つまり、相手を倒すことが目的ではなく、上手い「わざ」のプロセスの結果で相手が倒れていなければならない、ということである。

とりわけ高齢者は、「今を大切に」しなければならないだろう。若者と違い、「今」は取返しが利かなくなってくる。今覚えるべきことは今覚え、やるべきことは先に延ばさずに、「今」やる。また、これに関連して、今を楽しまなくてはならない。夏の暑いのに不平を言って、涼しい秋や冬のくるのを待つのではなく、暑いならその暑さを、寒いならその寒さを堪能すべきである。

ひとは自分のいる環境に満足しないようで、他の環境や未来に羨ましさや希望をもち、そしてそこに逃れようとし勝ちだ。「隣の芝生がよく見える」ということである。しかし、「今を大事に」「今に満足」し、今を楽しまなければ、結局はいつも不満であり、不平をいうことになる。そうすると、毎日がつまらない毎日となり、結局は満足できない一生となってしまう。こんな生き方だとしたら、たとえ100歳まで長生きしたとしても意味がないのではないだろうか。

高齢者は、合気道の稽古でも、明日にあまり期待せずに、その時間を精一杯稽古するのがいい。もしかすると、明日は稽古に来られないかも知れない。自分はまだまだだと思っているだろうが、合気道を稽古している高齢者の誰かは、今日、稽古に来られなくなったかもしれない。たまたまそれが自分ではなかっただけで、何時、それが自分に回ってくるかだけの話である。

「今を大事に」することは、誰にでもできる。何時まで長生きできるかは、お任せするだけだ。