【第123回】 今に感謝

人は得てして、今ある自分や自分の置かれている状況に満足しないどころか、不満を持ちがちである。これが自分を励まし、文明が発達する原動力だろうが、自分の足元を見ないで、あまり夢を追うと、かえって自分や自分の状況を変えることはできないようにも思える。

人は常に成長したいと思っている。主に物的成長を夢見、少しでも他人よりお金をもうけ、他人よりいいモノを、沢山持ちたいと考える人が多い。物質文明の競争社会である。これが人類をこれだけ豊かな社会にしたとも言えよう。しかしまだモノが不足している国や地域はあるものの、所謂、先進国といわれる国には十分、生きて行くためのモノはあるはずである。否、あり余るほどあるといえる。モノが欲しいというのは、もっと新しいもの、美しいもの、便利なもの、豪華なものを求めたいと思うことである。これ以上のモノを求めることに躍起になるよりも、そろそろこのくらいで満足してはどうだろうか。モノに目や頭が奪われると、足元が見えず、自分も見えないものである。特に金持ちや先が見えている高齢者が、まだ金を儲けようと躍起になっている姿は、滑稽で醜態である。

合気道では、「宇宙の中心に立て」といわれる。自分が宇宙の中心に立って、全てを吸収してしまい、他の如何なるものも自分の周りを回らせてしまえ、というのである。中心であるはずの自分が、モノ・金や相手の周りを回らされてしまうのは逆である。

自分が中心になると、周りのモノと結びつく。そしてその自分の周りのモノの素晴らしさが見えると同時に、自分のおかれている状況がどれほど素晴らしく、有難いことなのかが自覚できる。例えば、合気道の稽古に道場に通えることが如何に有難いことなのか。道場に行って稽古が出来るということは、自分は動けるだけの体力があり、健康であるということ、また時間的、金銭的な余裕があるということである。

この一つが欠けても稽古には通えないのである。それにストや事故で交通システムが機能しなくても稽古には行けない。通常、交通機関は時間どおり動いているのが正常と思って、気にもしないだろうが、よく考えてみると汽車・電車・バスやまた飛行機が時間通り運転・運航されているのは奇跡に近いかも知れない。何故ならば、汽車・電車・バスやまた飛行機は止まっているのが自然であり、飛んだり、動いているのは不自然であるからである。

また社会がテロや犯罪などで、街や道を歩くのも危険なら、稽古にも行けないことになる。安全な社会(最近ちょっと変わったが)にも感謝しなければならない。

自分の住んでいる国は、合気道が生まれ、合気道の稽古ができる国であるが、その日本の素晴らしさにも、なかなか気がつかないものである。自分の国の悪いところは、テレビ、新聞、書籍などの報道で注意するようだが、よいところを褒める報道はほとんどないといっていいほどなので、多くの日本人は自分の国の素晴らしさに気づいていないようである。

日本だけで生活していると、悪い面は気がつきやすいが、いい面はなかなか見えないものである。外国と比べてみるとその素晴らしさがわかるだろう。例えば、日本ほど自然が豊かな国はないといってもいいのではないかと思う。国土の80%は森林の山や川、湖であり、海に囲まれた北海道、本州、九州、四国の島など、6,847の島がある。日本には、暑い夏、寒い冬、新緑の春、紅葉の秋と四季があり、気候も北海道や千島列島・南樺太のように極寒から、南西諸島のように一年中泳げるような暖かい気候まである。

海、山、川と自然が豊かなこと、四季があることなどで食べ物も豊富である。日本ほど、季節感があって、季節の豊富な食がある国はないだろう。食と言えば、4,50年前までは、日本はまだ貧しく食べることもままならなかった。その頃は誰でも腹いっぱい食べたいな、と願っていたものだが、今では、ほとんどの日本人は腹いっぱい食べようと思えば、食べることができるのだから、有難いことである。

この他にも、日本の素晴らしさや自分の置かれている状況の素晴らしさが、まだまだ沢山あるだろう。一度、自分の足元を見つめ、自分の状況を観察して、自分が如何に素晴らしい状況にあるかを見てみるといい。

人がこれ以上の快適さを求めていけば、ますます環境を破壊することにもなる。もうそろそろ、自分の物的状況に満足するようになりたいものである。そしてモノ(魄)を追い求めるのではなく、今度は精神(魂)を磨くことにエネルギーを使って行くようになりたいものである。

モノをいくら所有して、自分を飾っても、人は満足できないものだ。自分が満足できるのは、自分自身が変わることである。よそ見をしないで、自分を見つめることである。

高齢者は、これを実践し、自得し、そして子供や孫は言うに及ばず、次世代を担う後進に、これを伝えて欲しいものである。