【第111回】 内面の美しさ

現代は物質文明の社会であり、モノや力がものをいう社会といえる。この社会のもう一つの特徴は表面的、外面的社会であり、人間の価値基準も目に見えるものに置くことである。着飾ったり、高価な持ち物を持ったり、高級マンションに住んだり、モノを所有すること、金があることがすべてであるかのようになっている。

合気道の演武会でも、受けを派手に投げたり、得物を使ってみたり、奇抜な技をやったりして、うわべの形だけで観客の関心を引こうとするのが増えている。道場の稽古でも演武会もどきにうわべだけ派手にやっているのが増えているようだが、物質文明を稽古にまで持ち込んでいるのは嘆かわしいことである。

合気道は、本来人に見せるためのものではない。特に道場では、自分で自分を見つめる厳しい稽古をしなければならない。演武会とは、自分の一年間の成果を自分に試すところであり、この一年で自分はどう成長したのかを確認するところであろう。人はその真摯な態度に感動するのであって、見せようと思って演武したものでは嫌味になるだけである。

日本人は、外面のうつくしさよりも、内面のうつくしさを重んじてきた民族である。春日大社長老である葉室頼昭氏は「日本人は古来、<うつくしい>という言葉に<美>ではなく、<徳>という漢字を当てはめました。それは<美>というのが、外観の美しさを表すのに対し、<徳>は内的の美しさを表しているからです。」(「神道<はだ>で知る」)と書いている。

本当のうつくしさは、うつくしくなろうと外面を着飾っても得られない。本当のうつくしさは、内面の「こころのうつくしさ」であろう。すべての動作、行動はこころの働きによるから、こころがうつくしければ動作、行動、姿形もうつくしいはずである。こころが欠けて、うつくしさをつくろうとしてつくったうつくしさは、うつくしくても外面的なものであるにすぎない。

合気道の「わざ」でも、うつくしさは追求しなければならないが、内面的な<徳しさ>を追求しなければならない。人を対象にすると、どうしても外面的な美しさを求めるようになるので、自分のこころにうつくしさを追求しなければならない。そのためには対象を人間ではなく、宇宙、カミにしていなければならないであろう。宇宙の流れに沿った、宇宙と結びついた、宇宙の法則に逆らわないこころになることであり、「わざ」もそれに沿ったものにならなければならない。そうならば徳しくなり、相手を説得することもできるのである。

どんなにモノを所有しても、どんなに着飾っても、どんなにモノでガードしても、他人は真からうつくしいとは思わないし、本人自身も完全に満足できないはずである。今の若者の問題も、ここにあるのではないか。

若い内は他人を意識してしまい、こころの余裕というものはなかなか持てないから、内面的な<徳しさ>をもつのは容易でないだろう。だが、高齢者になれば、肉体的な衰えもあり、外面的な美しさはどんどん減ってくる。高齢者がうつくしさを取り戻せるのは、本質的な内面的な<徳しさ>しかない。体を鍛え、こころを磨き、自分の内面を鍛えて、<徳しく>なっていきたいものである。