【第98回】 上手下手

スポーツは勝負の世界であるが、合気道には試合が無い。スポーツでの上手下手は勝つか負けるかで決まるが、合気道では上手下手の基準はない。合気道は相対稽古で二人(通常)で取りと受けを交互にやるので、お互い何となく俺の方が上手いとか、相手の方が上手いと思うものである。合気道では相手が上手であろうと下手であろうと、自分にはあまり関係がないことなので、相手のことはその程度でいい。

合気道というのは、名前が示すように「道」である。一本の「合気道」を進むのである。柔道は「柔」の道、剣道は「剣」の道、茶道は「茶」の道、華道は「華」の道を進むのである。言うなれば、富士山のような山の頂上に向かって、いろいろな登り道があるようなものである。

頂上が修行のゴール(但し顕界において)だとすれば、このゴールの頂上に近ければ近いほど上手で、遠ければ下手ということになる。合気道でもこの「道」を沢山のひとが登っている。抜いたり抜かれたりしながら、登っているということになる。

また、別の「道」を求める人たちが、別の道を同じように頂上を目指して登っている。頂上をゴールとして、上手い下手を等高線で表し、見てみると、他の「道」の人たちと自分を比べることができるだろう。合気道の「道」を進むひとだけを目標にするのではなく、他の武道や芸道の「道」を進むひとたちと比べてみるのも必要である。彼らの得意なもの、いいものを取り入れるのである。合気道の「道」の中だけを見ていると、視野が狭くなり、いわゆる「どんぐりの背比べ」になってしまう。合気道五段なら剣道、空手、柔道の五段に恥ずかしくない段でなければいけない。

合気道は、真善美の探求であるとも言われる。上手な「わざ」(業と技)は、宇宙に則った真理があり、宇宙生成育成を助長・促進し、美しくなければならない。そしてこの真善美は、合気道だけではなく、恐らく他の「道」を追求するすべての武道、芸道などが求めているものだろう。そうとすれば、この真善美をゴールとし、その等高線を引くことができることになる。この等高線をレベルという。

上手い下手は、この等高線(レベル)によって決まることになるだろう。そして、より高い等高線(レベル)に進むのが、進歩であり、上手になったということだろう。従って、合気道だけの等高線を見ないで、その等高線上の他の「道」も見なければならない。

「道」が違えば、真善美の比重の置き方も、考え方、修行の方法も違うので、合気道の自分と他の道のひとのレベルを、麓のところでは比較できないだろうが、頂上に近くなればできるはずである。何故ならば上手下手の最後は、技術的なものではなく、レベルアップした人間性そのものということになると思われるからである。

頂上を目指し、はじめは「わざ」を焦らず身につけながら、一歩一歩登っていき、最後は人間性をレベルアップしていくしかない。