【第92回】 形(かた)とわざ(技と業)

合気道は、形(かた)を通して「わざ」を磨く武道といえる。形とは規範とされる一定の体勢や動作であり、あらかじめ順序と方法が決められたものである。つまり、正面打ち一教とか片手取り四方投げなどと呼ばれるものである。合気道の基本の形は、それほど多くないと言える。合気道で基本の形というのは、別の言葉で簡単に言ってしまえば、名前がついているものといえよう。相手(受け)が手刀で切ってきたり、掴んできたり、突いてきたり、武器で攻撃してくるのを、取りが四方投げ、入身投げ、小手返し、回転上げ、一教から五教、呼吸投げなどで対処する一連の動作である。合気道の形の名前は、相手の攻撃法(攻撃体位、攻撃方向、攻撃部位、攻撃人数、使用武器)と対処法の組み合わせで構成される。

合気道の基本の形を覚えるのはそれほど難しくない。覚えようと思えば、誰でも2,3年で覚えられるだろう。はじめのうちは、先生が示した形が何なのかわからず、相手に聞いたり、注意されたりするが、何度か稽古をしているうちに分かるだけでなく、自分でも何とかその形ができるようになる。

この基本の形ができる、正確に言うと、その形をなぞって動けるようになると、合気道が分かったように誤解する者が多いようだ。合気道には試合がないこともあって、基本の形ができ、ある程度力がついてくると合気道ができたと思ってしまうのであろう。

合気道では、基本の形がある程度出来て、初段を出すようだ。しかし、初段というのは、それが示すように、段のはじめということであり、これから本格的な稽古が始まるということである。

初段をとって、形が無意識にできるようになったら、今度は「わざ」の稽古に入らなければならない。「わざ」には、「技」と「業」がある。「技」は技術ということで、英語のtechnicである。相手を崩し、倒し、押さえる技術である。

それに対して「業」は、技を上手く効かすための土台になる動きであるといえるだろう。例えば、肩を貫いて動く、面で動く、陰陽で動く、ナンバで動く、体の表を使って動く、また間合い、拍子、呼吸などである。また神業とはいうが神技とはいわないように、「業」は「技」より大きな動きで、自然の摂理に則った動き、働きということであろう。

基本の形に比べて、この「わざ」(技と業)は無限にあるといえるし、また無限に精妙である。形は決まっているものであり、相対稽古の相手同士が知っているので、上手下手はあまり関係ないが、「わざ」の精妙さで上手い下手が決まってしまう。「わざ」の修練は大事で、これでいいということはないから、修行には終わりがないことになる。

「わざ」には、よりよい世の中、天の岩戸開きのための大事な思想、哲学が含まれているが、それは「わざ」が出来る程度にしか分からない。

形(かた)だけで合気道が分かったと思ったら、それは違う。それだけでは、まだ合気道の半分も分かっていない。形を土台に「わざ」を磨かなければならない。よほど気を入れてやらないと、「わざ」は掴めない。形は教えてもらえても、「わざ」はなかなか教われないものである。「形」は本でも、ビデオでも身につけることができるが、「わざ」は本などからは身につかない。

「わざ」が出来るようになるにつれて、基本の形がより深く分かるようになるし、基本の形より一段高い形ができるようになってくる。どこを掴まれても、どのように攻撃されても、対処できるようになっていく。この攻撃法には、名前もつけられない。形も応用の形になると無限となるだろう。この段階になれば、動けば即合気となるはずである。

基本の形をしっかりやり、それを土台に「わざ」を磨き、そして更なる形を身につけていく。稽古は形と技とを絡み合わせていくものである。だから、合気道の稽古は終わりがないのである。「形」だけで出来上がっていては駄目だ。