【第89回】 自分対話

人は一人では生きていけないので、社会を形成して、その中で生きている。大勢の人間がお互いに助け合ったり、足を引っ張り合ったりしながら、複雑に絡み合って生きているわけである。そして人は他人を見、他人と対話し、比較しながら成長しようとする。

合気道でも、はじめは同輩に負けないよう、それを励みに稽古に励むものだ。人には他人には負けたくないという気持ちと、上達したいという気持ちの遺伝子が組み込まれているようだ。特に、スポーツでの上達は、他人に勝っていくことによるところが大きい。

合気道には、試合がない。これには、二つの意味がある。一つは、スポーツのような国際大会とか選手権大会のような試合はないということであり、もう一つは、二人で組んでやる形及びわざ稽古は、強い弱いを決める勝負、つまり試合ではないということである。

それでは、二人で組んだ稽古で何をするのかということになる。一口にいうと「戦い」である。しかしその戦いは相手ではなく、お互いに自分自身との戦いである。スポーツで他人に勝つのも容易ではないが、自分に勝つのはもっと大変である。何故ならば自分には策略、戦略は使えないので、正攻法しかつかえないし、真の上達を目指している観念的自分に、現実の欠陥だらけの自分が勝とうとしても、完全に勝つことは絶対にできないからである。

自分との戦いとは、自分の「わざ」や自分の体や自分自身を精進することである。相手を倒そうとか、抑えようなどということを目標にしてしまうと、気持ちは相手にいってしまい、その相手とぶつかってしまう。これは理に合っていないからである。何故理に合わないかとというと、受けや取りを取ってくれる相手は、「自分の戦い」を支援してくれる協力者であって、敵、競争相手ではないからである。

自分と戦うとは、自分との対話である。まずは、自分の体との対話である。体勢はこれでいいのか、陰陽で正しく手足を使っているのか、手先に力が集まっているのか、五体がバランスよく働いているか、自分が出した力がどのように相手を通って自分に帰ってくるのか等々である。もう一つは、こころの対話である。こころの対話というのは、もう一人の自分との対話である。相手とこころが一つになったか、相手は喜んでついてきているのか、相手が何か不満があるような場合、どこが間違っていて、どう変えればいいのか等々であろう。このもう一人の自分は、正直で厳しい。他人は誤魔化せても、これは誤魔化せない。間違えると、間違っていると言うし、これはこうやった方がいいとも言ってもくれる。この自分との対話ができるようになると、次にはいわゆる「神の声」が聞こえるのかもしれない。

稽古は、自分との対話である。他人との対話ではない。他人ばかりを対象にしていては、本当の上達はないだろう。演武会でも、受けを派手に投げようとか格好よく投げようなどということを目的にした演武をするのは、道に外れていることになる。ましてや芸能人ではあるまいし、観客受けを狙って演武するなどもってのほかである。過って本部の有川定輝師範と幾つかの合気道や武術の演武会にご一緒させて頂いたが、演武が終わったときの師範の拍手の数は、演武者が、この自分との対話ができていたかどうか、どれだけ自分に厳しくやったかによるものだった。他人に見せようとした演武には拍手はせず、そっぽを向いていたのが、思い出される。

東京オリンピックまでの柔道は、自分との戦いということを感じさせる、静かな中での壮絶な武道であったが、東京オリンピックで外人選手が勝った瞬間にガッツポーズをして以来、観客を意識するショー的なスポーツになってしまった。合気道でも、こころすべきことであろう。