【第81回】 テーマを持って

稽古というものは、一人であれ、相手があれ、ただ漠然とやっていては、上達はないといっていいい。時間や回数に期待をかけても、それだけでは上達はない。それは必要条件ではあるが、十分条件ではない。ひとが永遠に生きることができ、いつまでも稽古ができるのなら別であるが、ひとの寿命も稽古のできる時間もそう長いものではない。

モノには表裏がある。人はよく「何年、稽古をしていますか」と聞いたりする。例えば「10年です」と答えれば、初心者などは「10年ですか」と感心する。しかし、それは10年前にもう稽古を始めていたのかという嫉妬のような感情であり、自分ももっと早く始めておけばよかったのに、という羨望であろう。そして10年やったのだから、1年やったものより10倍上手いのだろう、という期待をして、「すごいですね」などと言う。
しかし、期待された10年の実力がなく、1〜2年のものと大差がなければ、10年もやってこんな程度かと見られることになってしまう。10年稽古をしたら、10年稽古してきたような実力が身についていなければならない。

掛けた年数の実力を身につけるには、一つ一つの稽古を大事にしなければならない。つまり一回ごとの稽古で、必ず何かの発見をしたり、それまで出来なかったことが出来たり、分からなかったことが分かったりすることである。稽古はその積み重ねである。それが進歩、上達である。

毎回の進歩や上達というのは薄紙一枚ほどであり、一回一回の上達の厚さはほとんど見えないといっていいだろう。せいぜい10年ぐらいでダンボール紙ぐらいの厚さになり、一寸上達したのが分かる程度であろう。

薄紙の厚さの上達でもそのためには、毎回テーマをもって稽古に臨み、稽古することである。テーマとしては、一教、二教、四方投げなどの形(かた)を少しずつ深めていくとか、重心の移動とか、腕を折らない等々あるが、その目標テーマは人により、稽古年数などによって違ってくる。またテーマにも、すぐにでも出来そうな小さなものから、一年も二年もかかるような大きいもの、それに到達できるかどうか分からないテーマなどいろいろあるだろう。

初心者のうちは、テーマを持たずに稽古をしても先生がテーマを示してくれるので、自分でテーマを持つ必要がないだろうが、段が上になればなるほどテーマは自分で見つけ、それを稽古しなければならなくなる。
稽古で一番問題なのは、自分のテーマ(問題)が分からないことであろう。何が問題なのか自分で分からなければ、本当の稽古はできないし、上達もない。上達というのは、ある目標に近づくことである。
目標がなければ、どこに向かって行けばいいのか分からず、上達もない。

合気道で辿り着こうとする目標と、人としての自分の目標、それに恐らく"ひと"(人類)として進むべき目標は一致していなければならないだろう。従って、合気道の上達は、自分の上達(成長)であり、強いて言えば"ひと"のレベルアップへ影響を与えることになろう。たかが「わざ」の上達どころではない、自分。の人生や、"ひと"のためにもなるのである。テーマをもって稽古をしていこう。