【第661回】  魄からの脱出のために その2.

前回の「第660回 魄からの脱出のために その1.」では、技も己の合気道も変わっていかなければならない。そしてそのためには、魄の合気道から魂の合気道に変わっていかなければならないと書いた。
そこで今回は、魄からの脱出のためを、もう少し具体的に書いてみたいと思う。

合気道は相対で形稽古を通して技を練り合って精進するが、この稽古を腕力や体力に頼る魄の稽古から脱出することである。魄の稽古では、相手に力を押し付けたり、ぶつけたり、引っ張たりするので、体力や腕力のある者には敵わない。稽古は体力や腕力に関係なくしなければならないのである。

例えば、相手に手を掴ませた場合、こちらから押したり引いたりするのではなく、相手に引かせるようにするのである。こちらは力で押したり引いたりするのではなく、掴ませている手先に気を入れ、気で満たすのである。手に気(生命エネルギー)は満ち、力が集まり、そして相手は浮き上がり、相手の抑えている力が無くなっていく。
相手が引いてくると、相手の体が自らつっぱり、力が無くなり、こちらの思い通りに導くことができるようになる。

どの技でもできるようにしなければならないが、初めはそれがやりやすいものでやればいい。例えば、呼吸法である。呼吸法はどうもこの稽古のためにあるように思えてしまう。取り分け、坐技呼吸法がいい。大先生がご健在の頃は、どの先生も、どの道場でも、そしていつでも必ず稽古したものだ。だから如何に重要なのかがわかるだろう。諸手取呼吸法もいい。これも過ってよく稽古をしていた。この呼吸法で魄からの脱出の感覚を掴めばいいだろう。

気を出すためには息をつかう。イクムスビや阿吽の呼吸でやるのである。そのためには、手先と腰腹が結んでいなければならない。そして手の動きは腰腹に任すのだが、その腰腹も息で動かさなければならない。息も腰腹も手も、陰陽十字につかうのである。
この息や体がイクムスビや陰陽十字でつかえるようになると、気結び、生結びが出来るようになり、相手とぶつかることなく、相手を導くことができるようになるはずである。

しかしながら、このためには魄の体を十分に鍛えなければならない。合気の体が出来ていなければ、魄からの脱出は難しいと思う。魄からの脱出のためには、鍛えた体を理合いでつかわなければならないし、更にその体を鍛えなければならないからである。体の各部位を各々鍛え、そしてそれらを一つにつかうのである。“バラバラ事件“(有川先生の言)にならないようにしなければならない。“バラバラ事件“を起こすのは、体の各部位を各々十分に鍛えていないからであると言える。

体が“バラバラ事件“にならず、理合いで働いてくれるようにするためには、息で体をつかわなければならない。
先ずはイクムスビで、イーと息を軽く吐き、相手と接して相手と一体となる。つまり、くっつけてしまうのである。因みに、争いの最大の原因がここにあるのである。相手と一体化すれば、相手が自分になったわけであるから、争いにはならない。自分はかわいいし、自分を痛める馬鹿はいないはずだからである。そしてクーで相手を導き、ムーで技を極めるのである。
要は、息づかいを間違えれば、つまり、法則違反をすれば、必ず相手とぶつかり、技は効かない事になるわけである。

息で体と技をつかえるようになると、更に気で息と体と技をつかえるようになるはずである。気は息を微妙に変化させる生親であると、「気の妙用は、呼吸を微妙に変化さす生親(いくおや)である。気の妙用によって、身心を統一して、合気道を行じると、呼吸の微妙な変化は、これによって得られ、業が自由自在にでる。」、「気は一切を支配する源・本」であると言われるからである。

ここまで来れば、大先生が言われる、気形の稽古と鍛錬法となる真の合気道となり、争いなどない次元の合気道になるわけである。争いがないと何故言えるかと云うと、大先生同士(お二人の大先生を仮定)、または、大先生と大先生のレベルの方が一緒に稽古をしている姿を想像すればいい。争いではなく、お互いに自然に宇宙の営みに則って技を掛け合い、受けを取り合われ、自然の風が吹き、葉が揺れ、落ち、蝶が戯れるような、自然で美しく、気持ちのいい技になるはずである。

魄(体)を土台にして、息、そして気で体と技をつかえば、相手も納得、同調してくれるので、争いはなくなるはずである。
そしてここから更に、魂の別次元の稽古に入っていけるのではないかと期待している次第である。

これが魄からの脱出の一つの稽古法であると考えている。