【第66回】 亜流に流されない

合気道には試合が無い。これは素晴らしいことである。しかし、物事にはすべてに裏と表があり、この合気道に試合がないことにも裏があるので、それを知り、カバーしなければならない。

合気道の稽古は形を通して技を鍛えるが、人によってやり方が違う。いうなれば、人の数ほどやり方があるといえるだろう。そういう意味では、技の使い方ややり方に間違いということはないということもいえる。つまり、何をやっても、どうやっても合気道なのである。

しかしながら、各人がやる合気道には本流と亜流(支流)がある。本流というのは、開祖が言われたり、書き残された合気道の哲学、論理、目標に即したものであり、亜流とはその本流から離れたものである。本流は宇宙万世一系に繋がっている。亜流は支流となり、それからどんどん遠ざかっていってしまう。

本流を行くのはそう容易ではない。何故なら、人はよほど注意し、我慢しないと、楽な方に走ってしまい、亜流に流され勝ちだからである。流言に惑わされたり、やるべきことをやらなかったり、形を正しく身につけなかったりすると、本流には残れない。また、稽古相手を倒そうとか、抑えようとばかり考えていると、ごまかしたり、他の技を使ってしまい、鍛えるべきところを鍛えないままになり、本流の技や動きが覚えられないことになる。

技を覚えるのは、簡単なことではない。漫画にでてくるように、念じてすぐできることなどない。やるべきことをひとつひとつ確実にやり、一段々々と上へ登って行かなければならない。二教の裏の稽古でも、手のしぼり、肩使い、拍子と、ひとつひとつマスターしていかなければならない。稽古事にはなんでもやるべきことがあり、順序がある。それをやらなかったり、順序を間違えると、別なものになってしまい、他のやり方をせざるを得なくなり、亜流に流されることになる。

本流にあるものは、美しくなければならない。合気道は「真善美」の探求ともいわれているからである。美しくないときは何かが間違っているのだから、業が美しくないと思ったら直していくようにしなければならない。「美」の追求からでも、本流を探すことはできる。宇宙万世一系に繋がる本流に乗っているかどうかを常に確認しながら、亜流に流されないよう注意して修練したいものである。