【第654回】
争わないために
合気道は相対稽古で技を練って精進していくが、稽古相手にやり易い相手とやり難い相手がいるのは確かである。
入門当初は、受けを積極的に取ってくれる相手がやり易い相手であろう。受けを取ることに喜びを感じており、技をつかう相手の気持ちを察して受けを取ってくれる相手が、やり易い相手と云えよう。
次の段階では、技を掛けて効く相手がやり易い相手で、こちらの技が効かず、逆に相手の力や技に制されてしまうのがやり難い相手ということになろう。
やり易い相手なのか、やり難い相手なのかは、大体は見れば分かるので、その相手と稽古をする場合は、お互いに力を抜いたり、入れたりなど調整しながら稽古をするので、頑張り合ったり、争ったりすることはそうない。
しかし、その判断を誤ったり、また、何かの調子で相手が豹変して頑張ることがあると、争いになることになる。
稽古の中での争いは、どこにでも潜んでいることになるわけだが、誰もが争いを避けて稽古をしたいと思っているはずである。
稽古における争いにも大きな争いと小さな争いがある。大きな争いは、受けと取りが頑張り合って、取っ組み合ったり、挙句の果てに「表に出ろ」などという争い等である。誰でもこれに近い争いは1,2度経験しているだろう。
小さな争いは、例えば、技を掛けても相手の力にぶつかって、返されてしまったり、上手くいかないこと等である。
このような経験を通して、人はやり難い相手を避けて、やり易い相手と稽古をする傾向にある。力のありそうな大柄な人、重そうな人、背丈のある人などとの稽古を避けるわけである。例えば。日本人の稽古人は、よく知らない大柄な外国人との稽古を避けているように思える。残念な話しである。折角のいい稽古相手との稽古の機会を逃しているのである。
何故、自分にやり難い相手との稽古を避けるかというと、結局は、争いたくないからであると考える。自分の思うように相手が受けを取ってくれなければ、ぶつかり、争いになるので、それを恐れているからだと思う。
ということは、究極的に、争いがないような稽古をすればいいことになる。
そのために、まず、稽古での争いは、何故起きるのかを考えなければならない。そして、その原因を次のように考える:
- つかう技が法則に則っていないこと。例えば、足、手、肩などが右左、規則的に陰陽になっていない場合、技は滞ってしまい、相手とぶつかることになり、強いては争いになるのである。
- 魄の力で技を使おうとすると、相手は必ず反発し、時として争いになる。取り分け、力の強い、体力のある相手を魄の力でやろうとすれば、反発してくる。ここで頑張り合えば争いになる。
- 相対の稽古相手を倒したり、決めてやろうと思って。技を掛けると、ある程度自信のある相手は反発してくるし、そこでぶつかり、争いに発展する。
- 相手に無礼と感じさせたら、相手は「おのれ小癪な」と思って対抗してくるので、争いになる。
等‥と考える。
そこで稽古で争いを避けるためにどうすればいいかということになるわけだが、その答えのほとんどは、上記の争いの原因の中にあるから、この順序で答えを出していくことにする。
- 宇宙の法則に則った技と体をつかうことである。体を陰陽十字につかうことである。自然で大きな力も出るので逆らえず、争いになり難い。
- 魄の力を下にして、魂(心)を上に、魂で技を使うのである。大きな、そして自然の力なので、誰もが共感でき、争いにならない。
- 相手を敵とするのではなく、同じ合気道を精進している同士として、宇宙天国建設の生成化育をお手伝いする同人と信じて対する事である。ここに愛が生まれので、相手の稽古にもなるような技づかいをし、また、自身もそのような受けを取るようになるはずである。
- 無礼と思われないように、挨拶はしっかりし、相手を軽視せず、相手を天から遣わされた一個人として接し、稽古をすることである。
過って、本部で教えておられた有川定輝先生は、誰に対しても挨拶を返しておられたが、その理由は、敵をつくらない為とお聞きしている。見習うべき事である。
この他に次のようにしていけば、争わなくなると考えている。
- 息(呼吸)で体を動かし、息で技を掛けるようにすることである。息を導き出すのは気と言われるから、その内に、気で技をつかうことができるようになると期待している。争いは無くなるはずである。
- 宇宙の営みに則った技づかい、体づかいをすれば、万人が共鳴し、争いにならない。例えば、天地の力(気、呼吸)をお借りすることである。
等‥であるが、物事はそう上手くばかりはいかないもので、中には、挑戦してくるものがあるだろうから、それに十分対処できるよう、そして争いにならないように、体をつくり、力をつけなければならない。
Sasaki Aikido Institute © 2006-
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