【第636回】  大乗と小乗の稽古

合気道を上達するためにはやるべき事が沢山あるわけだが、その内の一つに、合気道は武道であるということを認識して稽古をしていくことだと思う。
武道ということは、矛を止めるための修業の道というように、大事なモノを守るための厳しい修業の道ということである。簡単に言えば、敵を殲滅するための技を身につけるモノでもあるわけである。

大先生は、「真の武道は相手を殲滅するだけではなく、その相対するところの精神を、相手自ら喜んで無くさしめるようにしなければならぬ、和合のためにするのが真の武道、すなわち合気道である。」(合気神髄 P.173)といわれているが、合気道の稽古人の多くは、合気道は和合の武道であるばかりを強調しているのが気にかかっている。その方が、社会に受け入れられやすいかもしれないが、和合だけを稽古で追求しても、決して和合にはならない。和合するためには、その対照の稽古をしなければならないはずである。

それが相手を殲滅することである。大先生は、「真の武道(合気道)は相手を殲滅するだけではなく」といわれているわけだが、このことは、まずは、相手を殲滅できなければならないということである。抑え技でも投げ技でも、相手をしっかりと抑えたり、投げたりして、逃げられた、反抗したりできないように決めてしまう事である。ここでの殲滅は、勿論、相手を壊すことではない。また、出来る事とやることは別である。
これは己自身の稽古である。己自身の厳しさの可能性と限界を追及する稽古である。これを教えて下さったのは有川定輝先生であった。先生は、「武道なんて言っているから技がだめになるんだ、まあ武道というよりは武術だな」と言われていたように、武術の要素がなければ駄目だと言われている。
これを小乗の稽古といっていいだろう。

しかし、この殲滅の稽古だけであれば、合気道は野蛮であるということになってしまうわけだが、大先生は、殲滅する技量も必要だが、この上に、相手が満足して和合するようにしなければならないと、「その相対するところの精神を、相手自ら喜んで無くさしめるようにしなければならぬ和合のためにするのが真の武道、すなわち合気道である。」云われているのである。
これが以前の柔術などと根本的に違うのである。

殲滅されている相手に、自ら喜んでその敵対心や対抗心を無くさせるのは容易ではないはずであるが、それをやらなければ合気道にならないわけだから、何とかやらなければならないことになる。

一つは、技術的な事、つまり技づかいで出来る。技によって、相手自ら倒れるようにするのである。陰陽十字と息によっての技で、相手を浮かせてしまい、そして自ら倒れるようにするのである。これなら相手は自滅するわけだから、こちらに恨みを持つこともなく、相手は納得して平和裏に和合することになる。

次に、技の稽古を、自分のためだけの稽古とするのではなく、相手のためにも稽古をすることである。相手も少しでも上達するよう、また、体も鍛えられたり、柔軟になるようなお手伝いをしてあげる事である。相手を思う「愛」の稽古である。「愛」があるから、相手は和合するわけである。

更に、稽古は自分と相手のためだけではなく、社会や人類のためを思ってやることである。狭い道場で、相手を殲滅する稽古や相手に対する愛の稽古にとどまらず、天下国家、未来の世界、後進や若者や子供たちのために稽古をするのである。
これが合気道の目標である、地上楽園建設のお手伝いである。このために合気道家は稽古に励んでいかなければならないと、大先生は言われているのである。
世間のためになり、将来の文明、未来の人類・社会に少しでもお役に立てるように稽古をしていれば、相手だけではなく、万有万物と和合することができる。例えば、今の社会は物重視の社会である故、モノや力がある者が社会を牛耳ることになり、そのために競争、強いては戦争が頻発する。この物質文明を、心を重視した精神文明に変えて行かなければならない等ということである。
これを大乗の稽古といっていいだろう。

真の合気道の稽古は、殲滅的な小乗の稽古と万有万物のための大乗の稽古を合体して行うべきだと考える。