【第63回】 明日につながる稽古

道場で稽古しているとき、どうしても相手を過剰に意識してしまうものだ。特に初対面での稽古となると、緊張してしまうものだろう。物質文明にある我々は、これまでの自然との闘争、他民族との闘争、学校や仕事での競争などによって、闘争本能が働いてしまう。そして稽古相手に対しても相手を制したり、倒すことに集中してしまい、稽古での大切なことを忘れてしまう。これでは刹那的に終わってしまい、明日につながる稽古はできない。

合気道は、あるモノに続く「道」である。宇宙万世一系である。この世の最初のモノ「ポチ」とつながる「道」である。万物はこの「ポチ」とつながっているはずであるが、それをなかなか実感できない。(現代では、人はDNAという螺旋状の遺伝子/染色体を持っているということがわかっている。この遺伝子の中には、生物がはじめてできたときの情報が入っているはずであり、我々はその時点と繋がっているはずなのだ。)これを実感でき、肉体と精神が宇宙万世一系に従って働けば、人が探し求めているものが見つかり、そして様々の愚かな問題が解決できるかもしれない。開祖はそれを悟り、この素晴らしい合気道をつくられ、残されたわけである。

合気道を稽古している人は、みんな上手になりたいと思っているはずだ。しかし、上手下手とはどうゆうことなのか分かり難い。上手とは、宇宙万世一系にのっとっていることである。従って、稽古はこの道をひたすら「ポチ」に向かって遡り、また未来に向かって進むことである。未来とは、例えば、開祖が言われたように、「魂が魄の上になる世界」であり、「モノより精神が大切になる世界」であり、「争いの無い世界」であり、「言葉をお互い交わさなくとも相手の考えが分かる世界」であり、云々である。上手になる稽古とは、明日につながる稽古である。明日につながるとは、超過去の「ポチ」と超未来の両極につながっていくことである。

合気道の「道」をたどって遠い過去や未来に行くためには、合気道の形(かた)と技をしっかりとやっていかなければならない。この形と技をこの道に沿ってやれば、自分と「ポチ」、それに未来がつながり、自分は何ものなのか、どこから来て、どこへ行くのかがわかってくるだろう。このようなことが分かるのは合気道を置いてないのではないだろうか。従って、合気道の形と技は「秘儀」といえるのである。

技をかけても相手により、時により上手くいったりいかなかったりする。上手くいくとは、自分も満足でき、投げた相手も納得し、満足することである。お互い満足し合えるのは、「道」を正しく行っていることになろう。もし、どちらかが満足できないなら、「道」を逸れていることになるだろう。

しかし、「道」を進むためには又、新たな技や新たな思想の技化(わざか)をしなければならない。人はいつまでも同じところに止まっていられない。やはり上昇志向の本能をもっているからだろう。試してみれば上手くいくときもあろうが、上手くいかない場合もあろう。例えば、必要な筋肉が十分できていなければ、技が効かないのは当然である。だから先ず、根気よく必要な筋肉をつくることも大事である。相手を倒そうとするあまり、必要な筋肉を無視して他の技や他の部位を使ってやってしまえば、そのときは相手を制したとしても必要な筋肉はできず、先につながらない。例え技が効かず失敗してもいい。正当にやらなければ先へは進めない。

今日の稽古が昨日より少しでも変われば、明日も変わるだろう。そして1年後、10年後は、今できなかったことができるようになり、まさかと思ったこともできるようになるかもしれない。1年後、10年後にできるように、今日の稽古を明日につなげるように稽古するのがよい。