【第629回】  稽古と勉強

合気道は世界中に普及しているが、私には一つの気がかりがある。それはこの素晴らしい合気道の人口が、50年前の100数十万から、ほとんど変わっていない事と、私の同輩や先輩方の大半が稽古を続けていない事である。このことは、新人の入門はふえているものの、古株になると稽古を辞めていくということではないかと思う。もし、古株が50年、60年と、まだまだ続けているとすれば、合気道人口は、この数倍になっているはずである。

知っている古株が稽古から消えていくのには色々な理由があると思う。健康問題、家庭環境の変化、経済的な理由等‥であるだろうが、根本的な問題があるように思う。それは端的に云えば、合気道の難しさである。ある段階に来ると、どのように稽古をすればいいのかが分からなくなり、続ける意欲がなくなったり、無理や間違ったことをして体を壊してしまうのだと見ている。

合気道は非常に難しい。誰でも一生懸命に頑張ったとしても、必ず進める保証のある道ではないように思える。
初心者の段階では、形稽古で基本の形を覚え、力をつけていくが、これは誰でも問題なくできる。今の物質文明、魄の世界、見える世界の稽古だからである。
しかし、例えば、合気道には形が無いし、魄(腕力、体力、気力)を表に出さない「魂の学び」であるとなると、どのような稽古をすればいいのか分からなくなってしまうだろう。

これを教えてくれる先生も居られるかもしれないが、運よく出会う可能性も少ないだろうし、運よくその教えを受けても、恐らくその教えを理解できないだろうし、技として身につける事も難しいと思う。何故ならば、先生の教えのレベルに達していなければ分からないからである。
その典型的な個人的な例は、私の体験にある。まず、大先生である。大先生は、合気道は魂の学びであると話され、演武などで示されていたわけだが、我々は魄の稽古しかできなかったし、魂の稽古やお話は理解もできなかった。

また、本部で教えておられた有川定輝は、晩年、魂の次元におられたはずである。我々稽古人達には、その魂の学びに入るための稽古をさせておられたのだが、当時は気づかなかった。そして、それを先生が亡くなられて10数年後に、気が付いた次第なのである。先生は、魂の学びの稽古をしても、どうせ我々にはそのための下地ができていないから、まずは下地づくりからということだったのだと思う。しかし、お陰で、その稽古が、今大変役立っている。有川先生の稽古のあの時の教えが無ければ、私の今はなかったはずであると、先生には感謝してる次第である。

魂の学びの稽古に入るためにはどのような稽古をしなければならないのか、どんなことを知らなければならないのか等は、有川先生がいろいろな所で話されたものが残っているし、また、大先生のものは、聖典『合気神髄』『武産合気』に書かれている。しかし、特に大先生の聖典は難しい。一度や二度で分かるようなものではない。

真の合気道、魄から魂の学びの合気の道に入りたいならば、とりわけ、この大先生の聖典『合気神髄』『武産合気』を読むことである。分からなくとも読み続けることである。多分、100回読めば大分わかるようになるはずである。但し、条件がある。それは同時に、相対での形稽古を続け、技の錬磨を続けることである。つまり、技の錬磨と聖典を読むという稽古と勉強の併用である。

相対での形稽古をやっていれば、その内、読んでいる聖典の言葉の意味が分かってくるようになる。また、稽古で発見した技や体づかいが、聖典ではこのように記述されているのかを、見つけることになるだろう。
つまり、稽古と勉強は相乗効果があるのである。だから、道場稽古だけで勉強しないのも、勉強だけで稽古で体をつかわないのも、片手落ちということになる。

合気道の壁にぶつかったら、稽古は続けながら、勉強するのがいいだろう。