【第616回】  芸術と合気道

養老猛先生の『遺言』に、芸術について興味深いことが書いてあるのでその幾つかを引用させてもらう。

とある。
つまり、芸術は、同じものがなく、唯一性を持ち、“同じ”に向かっている文明世界の解毒剤であるということになるだろう。
確かに、今の同じに向かっている文明社会で、絵を見たり、音楽を聞いたりすれば、日常の緊張がほぐれ、新たな気持ちになって明日も頑張ろうと思うようになる。芸術は人類にとって、この解毒剤としても必要なわけである。

世界的に有名な画家で、ジョルジュ・モランディとパブロ・ピカソがいる。ピカソは独創的で、見ればそれがピカソと誰でもわかる絵を描いた。しかし、モランディに云わせると、ピカソはいつも同じものを描いて退屈だ」という。
モランディの絵は、食器など、同じ対象であるが違う描き方をしており、ピカソは対象を変えるが、同じ描き方をしているという。
モランディの画は、全く新しい静物画で、「静かなるほど美しい」といっており、「静物劇場」とも云われる。
芸術には同じものがないわけだが、モランディの目から芸術を見れば、同じものに見えてしまうということである。ピカソの絵でさえ、どれもこれも同じに見えるわけである。我々一般人がどれも個性的で、独創的な芸術と見る絵を同じといっているのである。

そこでモランディの芸術とピカソの芸術感の違いはどこにあるのかを、合気道の思想で考えてみる。
モランディがいう“同じ”とは、同次元、同質のもので、同次元、同質のものをいくら描いても“同じ”であると言っていると考える。モランディは、同じものでも次元を変えて、異質のものを描いていったのだと思う。昨日より深い次元で対象物を見、対象物と対話し、今日は昨日とは異質な異次元のものを描いたわけである。
だから、モランディは人をあっといわせることは全くないし、それを望んでもいなかったはずである。
合気道的に云えば、見えるモノを見えるように描くのではなく、見えないモノの心、聞こえない対象物との対話を描いたように思える。つまり、見えるモノを追わないで、見えないモノを追及していたように思える。

合気道は真善美の探究であるから、芸術でもある。錬磨する技、立ち振る舞いは美を追求しているはずである。宇宙の営みに一体化すべく、多くも少なくもない自然の形や動きやリズム(拍子)を追求するのである。
しかし、見えるモノだけを追求していくと行きづまってしまうようだ。勿論、初心者のうちは見えるものを追求し、技の形を覚え、体をつくらなければならない。
その基礎ができたら、こんどは見えないモノを見つけ、身につけていかなければならないはずである。“同じ“にならないため。
見えるモノは同じであり、見えないモノが変わるはずだからである。

参考文献  『遺言』(養老猛司著 新潮新書)