【第587回】  稽古は道場だけでするものではない

稽古は稽古時間だけやればいいものではない。1時間とか2時間の稽古時間で指導者はすべてを教えられるわけでもないし、習う方も完璧にできるわけでもない。だから、本部道場では稽古時間の後に1時間ほどの自主稽古時間を設けていて、稽古時間での出来なかった事や不十分なところを補うようにしている。この事は二代目吉祥丸道主の『合気道技法』の中に説明してあるはずだ。

また、稽古は道場だけでするものでもない。入門当時は、道場に通って稽古をし、汗をかいて、体を鍛え、形を覚えると、それで満足できたものである。それは、それまで稽古をしていなかった自分や、稽古をせずに体を動かしていない人たちと、稽古をしている自分を比べるからである。


稽古を続けて行くうちに、段々と欲が出てくる。稽古仲間に負けないようにとか、先輩や先生のように上手くなりたいなどである。そのためにその先生の稽古時間や先輩・仲間が出る曜日・時間に稽古に行くことになり、年を重ねるほどに少しずつ上手くなっていく。

このような稽古が数十年続き、限りなく続くものと思っているわけだが、いずれ先生や先輩が少しずつ他界されていき、教えを乞うことが出来なくなってくることになる。上達するためにはどうすればいいのか、技を効くようにするためにはどうすればいいのかは、誰も教えてくれなくなるわけだから、自分自身で考えなければならなくなることになる。

今思えば、ここからが真の稽古に入ったことになりそうだ。それまでは人に教えて貰っていたわけだから、自分で本当に悩んだり、落ち込んだりすることはほとんどなかったが、それが今度は、大きな問題が出て来ては悩み、それを自分自身で解決しなければならなくなったのである。
また、自分で自分の稽古をみつけ、技を積み重ねていかなければならなくなる。これまでの相対的な稽古から、自分との戦いとなる絶対的な稽古になるわけである。

そこで原点に戻ることにした。ひとつは、開祖の書かれた『合気神髄』と開祖の言葉がまとめられた『武産合気』を読むことにしたのである。当然、読んでもすぐには分からないので、何度も繰り返し読む。『合気神髄』を読み終えたら、次に『武産合気』を読み、それが終わったら『合気神髄』と繰り返して読んでいくのである。これは今でも続けているが、まだまだ分からないところが沢山残っている。しかし、一度読むたびに、大事な教えを一つ以上は身に着く。この二冊は合気道の聖典と考えているので、終わることなく読み続けるつもりである。

さて、道場稽古であるが、この聖典を解らないながら読んでいくことによって稽古のやり方も変わってくる。開祖はこの聖典で、我々合気道家が進む「合気の道」を示されているし、合気道は技の上達によって精進しなければならないこと、技は宇宙の営みを形にしたものであり、宇宙の法則に則っているので、体も宇宙の法則に従ってつかわなければならない等で、その教えに従って稽古をするように心掛けるようになる。
それまでの稽古は、相手を倒したり、決めればいいという稽古をしていた。今は、相手を倒すことを目標にはしなくなったが、勿論、相手が倒れるかどうかは重視している。何故ならば、技を掛けて相手が倒れなければ、その技は失敗作だからである。

相手を倒すのではないが、相手は倒れなければならない。このためには法則に則った体づかい、息づかいをしなければならない。基本は陰陽と十字であろう。これを道場で受けの相手に掛けて試し、反省し、そして会得していくわけであるが、道場の稽古時間だけではとても足りない。

まず、例えば、開祖が云われている「十字」を身につけよう、技に取り入れようとしたら、道場の外でそれがどういうものなのか、技とどのような関係があるのか、どう遣えばいいのかなどを考えなければならない。道場の稽古中に考えていたら、武道としては隙だらけになり、やられてしまうので避けなければならない。

従って、少なくとも、家や会社を出る時から、道場への道すがら、歩きながら、電車の中などで考えればいい。いい考えが浮かべば、それを道場で試せばいい。また、試して上手くいかなければ、家への帰途に反省するのである。場合によっては、家の中でも、風呂の中、トイレの中でも考え続ければいい。
そこで解決策が思いつけば、それを次の稽古で試すのである。次の稽古が、小学生の遠足のように、楽しみになるはずである。

自分のやっていることが正しい方向にいっているのかどうかは、あの開祖の聖典に照らし合わせればいい。十字にせよ、陰陽にせよ、開祖の教えに沿っていればよしとできるし、そうでなければ方向転換をしなければならないことになる。