【第573回】  生成化育に則った稽古

開祖が云われているように、合気道は日々変わっていかなければならないと思う。戦前や明治・大正時代の考えで稽古をしていたとしたら、開祖がつくられた合気道とは違うものになってしまうことになる。
しかしまた、合気道は武道であるわけだから、武道の要素がなければならない。従って、戦前や明治・大正時代からあるはずの武道要素も稽古していかなければならないわけである。
時代時代に合わせて稽古をしなければならない一方、古きものを尋ねる稽古もしなければならないことになる。

合気道の稽古が日々変わるためには、自分自身が日々変わるように生きていかなければならないことになる。昨日の自分、一年前の自分と今日の自分が変わらなければ、明日の自分も変わらないだろうし、稽古も変わらず、そして技も変わらないことになるからである。

何故、稽古、そして自分が変わらなければならないかというと、宇宙が変わっているからである。宇宙は宇宙完成に向かって生成化育を繰り返しているからである。つまり稽古や自分が変わらないのは宇宙の営みや意志に反し、不自然ということになる。

それでは何故、変え続けなければ稽古が止まってしまうのか。
稽古が変わらず、止まってしまうのは、究極の目標と己を結んだ道にのっていないからだといえよう。合気の道にのっていれば、稽古は変わっていくはずである。道から外れたり、道に逆らうと稽古が止まり、上達もなくなり、場合によっては体を害することになるのである。

さて、宇宙の生成化育のように、稽古も変わり続けなければならない事を、またまた実感させられた。
家でもやるが、道場稽古の前に柔軟運動、ストレッチ運動をやっているが、体、つまり体の部位を柔軟にするためには呼吸でやることが大事である。しかし、この呼吸・息づかいがどんどん変わるのである。これまでいつもこの息づかいこそが正しく、究極的なものであると思ってやってきたのだが、更に新しい息づかいを見つけるのである。
そして前回のものこそが最高のやり方と思っていたのだが、それも今回また変わったのである。

  1. 初めは、開脚の股開きのストレッチであれ、手首のストレッチであれ、息を吐きながら股や手首に力を入れた。
    このやり方は数40年続き、最も長かった。大概の稽古人はこの息づかいのようだ。
  2. 次には@に変わって、逆に息を腹に入れながら、そのストレッチ箇所に力を入れた。このやり方は数年続いた。この頃から息を入れる(吸う)ことの重要さに気が付いてきた。一段と体(部位)は柔軟になった。
  3. 今度は、息を一寸吐いてその箇所に力を入れ、更に息を入れながら力を付加した。これが最高のストレッチのための息づかいだと思ったが、長くは続かなかった。
  4. イクムスビの呼吸に合わせてあるのがいいと分かったからである。イーと一寸息を吐き、クーで息を入れながらストレッチ箇所に力を加え、ムーで息を吐きながら更に力を加えるのである。お陰で大分柔軟になった。
    技もイクムスビの息づかいでやるので、この息づかいこそ最高、最終の息づかいとつい最近まで思っていた。
  5. しかし、今また、変わったのである。それは阿吽の呼吸でやることである。アーで息を入れ体を伸ばし、ンで息を吐いて更に伸ばす。
    これこそは究極の息づかいと思っているが、これまでのこともあるし、また、宇宙は生成化育であるから、恐らく更に変わることになるのではないかとも思っている。
高々、50年でストレッチ運動での息づかいがこれだけ変わってきたのである。稽古の仕方、体のつかい方、そして技づかいもどんどん変わっていかなければならないだろう。決してこれでいい、これが究極のものだなどというものはないようである。そう思ったときは、道から外れているかもしれない。もう一度見直してみる必要がある。