【第553回】  次の稽古は六根を浄める

「とーりゃんせ」の唄ではないが、合気道は誰でも容易に始めることができるが、ある段階から次の段階に進むのが容易ではない。
合気道は、ある段階までは、形を覚え、合気の体をつくる稽古をするので、誰でもやればやるほど上達する。
ここまでの稽古法は、言ってみれば、スポーツ的であり、魄の次元の稽古であり、誰でも容易にできる。

しかし、合気道は相手をやっつけたり、相手に勝つために稽古をやっているのではない。宇宙との一体化を目指す魂の稽古をしなければならないのである。
だが、それまでの魄の稽古から、魂の稽古への変更が容易ではないのである。どうすれば、魄から魂への稽古に移ることができるのかが、トンと分からないのである。そのため、従前からのスポーツ的、魄の稽古を引きずっていくことになるのである。それで修業を終える稽古人もいるし、場合によって、体をこわして早期引退する人も多い。

開祖は、「合気道の技の形は、体の節々をときほごすための準備です。これから六根の罪けがれをみそぎ淨めていかなければなりません。」(「武産合気」P.37)と云われている。
つまり、はじめの形稽古は、本格的な合気の稽古に入るための準備であるということである。初心者は往々にして、この段階で合気がわかったつもりになったりするものだが、それは体をつくる準備運動のようなものだったわけである。

そして、次の段階に進まなければならないといわれる。それは、「己の六根の罪けがれをみそぎ淨めていかなければならない」のである。
六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意である。色・聲・香・味・触を感ずる五感と意の意識である。
この六根の穢れを除き、浄めていくのが、次なる段階の稽古であると云われているのである。

形稽古は以前と同様続けなければならない。何故ならば、名人達人になればわからないが、少なくとも当座は、合気道は形稽古を通してしか上達できないはずだからである。
ということは、以前の形稽古と違った稽古をしなければならないということになる。

その一つは、それまでの腕力や体力の力(魄)に頼る稽古から意識・心の稽古、魂の稽古に変えることであろう。

次に、五感(眼・耳・鼻・舌・身)を浄めて、繊細に、敏感にしていくことだろう。真に浄まり、敏感になれば、それまで見えなかったもが見えるようになり、聞こえなかったものが聞こえ、匂わなかったものが匂い、味わえなかったものが味わえ、また、超人的な触覚が身に着くのだろう。開祖は、遠くにある目に見えないものが見えたとか、地下を流れる水の流れを聞き取られたとか、誰かがお風呂に手を入れて温度を確かめたこともお分かりになったという等、超人的な触覚もお持ちになっていたといわれるのである。

合気道の修業の目標は、宇宙との一体化と云われているわけだが、そのためにも、この六根を浄める修業は欠かせないはずであると考える。

形稽古で体の節々をときほごしたならば、次に、開祖がいわれる六根の修業に入らなければならないことになるだろう。