【第523回】  剣がつかえる技づかい、体づかい

合気道の技には剣の技が入っているといわれる。開祖が剣を修業されたことと、柔術など、それまで修業して身につけたものをすべて忘れてしまったのに、松竹梅の剣だけは残った、といわれていることを考え合わせると納得できる。

合気道の形と合気道の理合いの技には、剣の理合いもあるということである。
具体的にいえば、合気道の理合いで剣をつかわなければならないし、剣の理合いで合気道の技をつかわなければならないということにもなるだろう。
戦後、開祖のまわりには一流の剣道や居合の達人が集まったわけだが、彼らは合気道の理合いに、剣道や居合の理合いや技を身につけようとしていたものと考える。

晩年の開祖の動きは、剣の動きも 素手・徒手での動きも全く同じだったように思える。素手・徒手では合気道、その手に剣を持てば合気剣となった。晩年は剣にかわって扇子など持たれて、内弟子たちの打ってくるのをかわしたり、死角に入身して、相手の頭を扇子で打つしぐさをされていた。

要は、剣であろうと扇子であろうと、素手のときと同じように技をつかい、体をつかわれていたわけである。

通常の合気道の稽古は、手で技を掛けながら技を練っているから、手を如何に上手く、そして力が出るようにつかうかに重点が置かれている。そのため、手を諸手取呼吸法などで鍛えたり、また、柔軟性を増すために関節を鍛えている。

だが、ある程度、手に力がついて来たら、相対の形稽古で手のつかい方を考えて稽古をしなければならないと考える。
それは以前も書いているが、手を刀と考えてつかうのである。つまり、手を手刀と思ってつかうのである。刃筋が通り、折れ曲がって鈍刀にならないようにするのである。多少、しっかりつかまれても、刀のようにつかえるようにしなえればならないのである。

例えば四方投げである。 受けの相手に片手を取らせる場合、取らせる手は剣を持つ形、つまり、手は親指が天、小指は地を向く縦で相手に取らせる。ここから手先で相手の腹を横に真っぷたつに切るように、息を入れながら、手先を縦から横に返す。
引き続き、手の平を横から縦に返しながら、手を己の正中線上に上げ、そして体を転換して切り下す。
この動きに剣を持てば、合気道の四方切りとなる。

この四方切りを、掛かってくる相手と触れずにやるのである。気持ちと息で相手と結んでしまうのである。素手でできたら、その手に剣をもってもできるはずであるし、できるようにしなければならない。素手でも、剣でも同じということになるのである。

もう一つわかりやすい例として、正面打ち一教がある。相手が打ってくる手を刀と見立て、こちらも己の手を剣とするか、また、己の手に剣があると思って技を掛け、体をつかうのである。

素手できちんと捌き、技がつかえれば、剣を持ってもできるはずである。
素手でやると、速さや力具合などは自由自在である。これに剣を持ってやれば、切り下すのも、切り払い、切り上げるのも、通常にはない速さでできるものである。

合気道の技の動きで剣がつかえるようになると、超速の動きができるようになる。動きが速くなると、不思議な事に、遅くも動けるようになる。つまり、早くも遅くも自由自在ということである。
この段階になると、剣を持とうが素手だろうが同じという境地になるのだろう。
無刀取り、太刀取りなどはこの段階ではじめてできるようになると思う。

合気道の形稽古、技の錬磨の稽古では、手に剣がなくとも、剣としてつかい、そしてその手に剣を取ってもつかえるようにしなければならないと考える。

いずれ合気道からも剣の達人がでてくるのではないかと期待している。