【第509回】  不得意技をなくす

合気道は、技を練り合って精進していく。技を練るということは、宇宙の法則に則った技を少しでもその法則に則るよう、近づくように、稽古していくことである。100点満点制で宇宙の法則というレベルを100点とすれば、稽古を始める前の0点から、稽古につれてどんどん点が上がり、少しでも100点に近づこうとしているわけである。しかし、我々凡人には100点満点は取れないことだろう。

100点の技とは、神業ということになる。開祖は100点満点の技を会得され、示されたのだから、開祖の技は神業といわれるわけである。

神業とは自由自在の技であり、己の思った通りに動けば技になる、ということである。これを開祖は、合気道には形がないとか、動けば技になるといわれていたはずである。

稽古人は誰でも100点満点を目指して稽古を続けているはずであるが、なかなか思うようにいかないのが現実であろう。その原因には、個人的なものや一般的で共通のものがあるだろう。例えば、個人的な原因としては、体力、意欲、努力などがあるだろうし、一般的なものとしては、力の社会、相対的世界に生きており、そこからなかなか抜け出せないこと、などがある。

それ故、100点に近づくためには、まず、相対的な世界、力の社会の心を絶対的な世界の心に切り替えることである。つまり、他人との比較や勝負ではなく、己のため、己との勝負という絶対的な稽古にするのである。その上に、技の錬磨を通して、己の体力、意欲、努力を育成していくことである、と考える。

錬磨している技には、誰でも得意技と不得意技というものがあるものだ。得意技は好きだしやりやすいので、頻繁に、そして一生懸命にやることになって、ますます上達する。すると、得意技の点数は100点に近づくわけである。

己の得意技を増やすこと、そのレベルをより高めることは大事なことであり、他の技が得意技のレベルに近づくための先導役にすればよい。とりわけ若い内、段の低い内は、上達のための最良の稽古法であると考える。

しかし、若い後進の得意技を見ていると、元気で力強く早いという若さはあるが、技としては荒っぽいといえるだろう。ここまでは稽古の一段階目であり、ここから次の段階の稽古に入らなければならないのである。

有段者になっても、特に段の低い内は、不得意技があるものだ。あるというよりは、不得意技の方が多いだろう。だが、少なくとも基本技といわれる形はできるようにしなければならない。形ができるとは、例えば、二教なら表と裏の形で体を使える、動ける、ということである。つまり、技ではない、ということである。技はその形ができた上でなければ、つかえないのである。形の動き、軌跡に、陰陽、十字、円の動きなどを入れていくのである。

基本技の形ができなければ、それは不得意技ということになる。高段者は不得意技があってはならない。得意技に頼るのではなく、不得意技をつぶしてゼロにしていかなければならない。少なくとも、その努力を続けなければならないだろう。

しかし、わかっていても、己の不得意技を克服するのは容易ではないだろう。なぜならば、以前のように一生懸命がんばって稽古すればよい、というものではなくなるからである。克服できるよう、うまくできるような稽古をしなければならないのである。

例えば、技がうまくできない、形にならないという多くの場合は、足が左右陰陽につかわれていない、手も陰陽につかわれていない、ということがある。足が止まったり、陰陽を間違えれば、法則違反であるから、技にはならないし、形にもならない。これでは、どんなにがんばっても無駄であり、不得意技のままである。

不得意技を克服するためには、不得意技を科学しなければならない。法則制を見つけて、その法則に則ってやらなければならないのである。だから、不得意技でも新しい技、応用技でも、科学すればよいはずである。

不得意技をある程度、つまり、自分である程度納得できるようになると、次の段階の稽古が待っている。さらなるレベルアップ、100点に向けての底上げである。

例えば、一教から五教の基本技を、さらに厳格な法則に則ってやるのである。この段階になると、相手がどうとか、相手をどうこうする、といったことではなくなる。相手がどうであれ、己を見つめる、己との本格的な戦いの稽古となるのである。それまでの相対的な、力比べの肉体的な稽古ではなく、己の心との戦いともいえる「心の稽古」になるはずである。

まずは、不得意技をなくすようにしなければならないだろう。