【第47回】 見ればわかる、やれば出来る、はない

現代は情報化社会といわれるように、情報が豊富である。文字情報だけでなく、音声や画像情報があり、容易に必要な情報を入手できるようになった。そして人は、その情報を見たり、聴いたり、読むことにより、自分もそれができると錯覚しがちである。野球やサーッカーなどのファンは試合を見ながら一緒にプレイしている気持ちになり、自分も同じように打ったり、蹴ったりできると思ってしまう。しかし、実際にやってみれば、それがほとんど出来ないのが普通である。合気道でも、ビデオをどんなに見ても開祖や諸先輩のようにはできない。

稽古をやれば、かならず出来るようになるとか、上手くなるという保証はない。勿論、稽古をやらなければ、上手くならない。稽古は上手くなるための必要条件ではあるが、十分条件ではない。稽古をすれば、間違いなく上手くなったり、技ができるようになるなら苦労しない。稽古を一生懸命やる意味も変わってしまうし、名人や達人で溢れてしまうだろう。稽古にたいするロマンも失われてしまう。稽古は、学校の試験問題のように、必ず答えがあり、そのためのプロセスとアプローチが決まっているものではない。

稽古のおもしろさは、自分のやっていることが上達するために正しいのかどうかが、なかなか分からないことである。いろいろ試行錯誤をして、道場で稽古相手に試し、修正し、改善することを繰り返し、積み重ねていくと、ある時、上手く相手が倒れてくれて、相手も自分も納得できる技ができる。正しいと思いながらも、その保障がないところで、それが出来たときの感動は大きいものだ。稽古が続く大きな理由の一つが、この感動であろう。

しかしながら、合気道の稽古のためには、大いに本を読んだりビデオを見たりして研究をやるべきであろう。そして、それを自分の稽古に取り入れて、試行錯誤しながら前進すべきである。ただ、ますます増大する情報に振り回わされないようにすることだけは注意すべきだ。見れば簡単にわかる、できる、などと思わずに、また、他人ができたことが自分にも簡単にできるなどと錯覚せずに、自分を信じ、正しい稽古、正しい道を地道に進む努力をするしかないのである。