【第461回】  今日の稽古のポイント

合気道は、時間がかかるものである。時間をかけなければ、合気道はわからないだろうし、その目標に到達することもできないだろう。しかし、時間をかければ合気道がわかり、目標に到達できる、という保証もない。できることは、その目標に近づいていくことであり、精進することだけである。

また、時間をかければ必ず上達するわけでもない。上達するためには、上達するように、時間をかける必要がある。つまり、上達していくには、時間がかかるものなのである。それが、精進ということであろう。

やるべきことを一つずつ身につけていくのが、稽古である。それも、やる順序がある。つまり、やるべきことを順序よくやっていかなければならないことになる。

よい先生、指導者がいれば、やるべきことを教えてくれるかもしれない。だが、やるべきことは何せ沢山々々あるわけだから、先生や指導者にお任せするだけでは不十分ということになる。もちろん、教えて頂けるうちは、有難く教えて頂かなければならないが、やはり自助努力であろう。

有限である人生と稽古時間を有効につかうためには、その時間に少しでも精進できるよう稽古しなければならないことになる。そのためには、稽古の前に、その稽古時間で学ぶべき事、学びたい事を知って置くことである。つまり、今日の稽古のポイントである。

これを意識して稽古するのとしないのとでは、10年も経つと違いが大きくなるだろう。しかし、「今日の稽古のポイント」を意識して稽古するにしても、容易ではないものがある。相対の稽古相手に思い切りがんばられると、おのれ小癪なとばかりに、所信の「今日の稽古のポイント」などどこかへ消えてしまい、稽古の後で後悔することになる。まあ、「今日の稽古のポイント」の80%以上は、忘却の彼方ということになるようである。

「今日の稽古のポイント」が相対稽古で忘却の彼方へ行ってしまったら、自主稽古でやればよい。すぐにはできなくとも、繰り返しやれば必ず身につくはずである。体が教えてくれるし、何物かが導いてくれるようでもある。

晩年の有川定輝先生の稽古時間では、必ず稽古のテーマ「今日の稽古のポイント」があり、準備運動から技の稽古内容までそれで構成されていた。もしそのポイントが何であるか分からなければ、稽古の意味が半減する訳である。だから、必死になって「今日の稽古のポイント」を、最初の超簡単な準備運動から見つけようとしたものだ。

その例としては、手首遣い、肘中心の円、手刀などが挙げられるが、先生の「今日の稽古のポイント」の教えが、今、非常に役立っているわけである。

「今日の稽古のポイント」を長年やることに、長年稽古をしていく意味もあると考える。