【第453回】 合気道は芸術であり科学

合気道は、技の錬磨をしながら精進していく武道である。正確には、技の形の錬磨である。一教や四方投げなどの形を飽くことなく繰り返して技を磨き、身につけていくのである。

合気道には形がないといわれるし、技にも形はない。合気道の技は、宇宙の営みを形にしているからである。だから、これがその形ですといって責任をもって示すことができる人はいないわけである。合気道を創られた開祖がそういわれているのだから、形はないことになる。

合気道の形稽古を見ていると、非常に自由であり、個性的であるといえよう。例えば日本舞踊やお能の仕舞などと比べれば一目瞭然である。日本舞踊などでは、手先の位置が少しでも違えば、厳しく注意されることだろう。

しかし、合気道は形がないからどうやってもよい、ということではない、と考える。形の中に、やってよい事・悪い事、やるべき事などがあるからである。これらの要素を踏まえた上での自由と個性的でなければならない。しかも、その要素で満たされている形であっても、同じ形になることはない。人が違えば、違った形になるからである。

上手、下手の基準のひとつに形がある。形が美しいかどうかである。形が美しいということは、必要なものがあり、無駄なものがないということで、別な言葉では、自然であるともいえるだろう。態勢、動き、体づかい等々が自然である、ということである。

さらに、必要なものがあり、無駄なものがなく、自然である、とはどういうことかというと、宇宙の法則に則っていること、宇宙の営みに近い、合致しているということだと考える。

すべての美を追求している芸能、芸術などは共通して、根本的にこの宇宙の法則に近づこう、則ろうとしていると思う。

合気道も技の形の稽古を通して、必要なものがあり、無駄なものがなく、自然に近づこうとしている。だから、美の追求をする芸術である、といってもよいだろう。つまり、美しくないものは駄目で、少しでも美しくしていくことが精進である、ということになるだろう。

次に、合気道は科学でもあるともいえるだろう。科学とは理論だてをし、それを実践し、反省・修正・改善して、また実践し、その理論を形に表していくことである。合気道の修業、形稽古はまさに科学である、と考える。

従って、自分が稽古する合気道とは何か、目標は何か、技とは何か、四方投げ・両手取にはどのような意味があるのか、等を理論化し、それを稽古で実践し、少しでも理論に近づけるようにしたり、理論を修正したり、技を磨いていくのである。

開祖はよく、合気道の稽古は「科学しなければならない」といわれていたが、それはこのようなことであろうと考える。自分の実践していることを、理論的に説明できなかったり、自分が理論化したことを形で表わせなければ、科学していないことになり、合気道ではないことになるだろう。

己が合気道を科学できれば、その方法で他人にもできるようになるだろう。科学であれば、科学は万人が共有できるはずのものだからである。

合気道は芸術であり、科学でもある、と信じるゆえんである。