【第452回】 呼吸力をつけていくためには

合気の稽古では、その主なものは気形の稽古と鍛錬法である、といわれている。気形とは、宇宙の法則に則った技を集めて形にした、正面打ち一教とか片手取り四方投げなどの形であり、それを稽古することが気形の稽古である、と考える。また、鍛錬法とは、呼吸力の養成である、といえよう。

従って、気形の稽古で宇宙の法則に則った技が身に着くに従って、合気道の目標である、宇宙の一体化に近づくことになり、それが上達となるわけである。また、呼吸力もあればあるほど、技はかけやすいから、少しでも大きい呼吸力にしていかなければならない。力もあった方がよいし、あればあるほどよいのだが、この力とは呼吸力でなければならない。

合気道の稽古では、この気形の稽古と呼吸力鍛錬法のふたつを、共に表裏一体でやっていかなければならない。どちらか片方が欠けても、技はうまく効かないし、さらなる精進が望めないはずである。

このふたつの稽古は同時に並行して行われているわけだが、よく考えてみると、稽古には順序があるようだ。つまり、まず気形の稽古をある程度までしっかりとやらなければならないのである。なぜならば、気形の稽古ができなければ、呼吸力をつけることは難しいからである。

呼吸力とは、遠心力と求心力という相反する力を備え、相手をくっつけてしまう、引力を有する力である。この呼吸力は、宇宙の営みに則った理合いの動きと体づかい、条理の息づかいの基でやらなければ、出てこないものである。足や手が陰陽で規則的に、法に則って動かなければ技にならないので、呼吸力も出ないことになる。

すると、結局は腕力に頼らざるをえなくなって、手を振り回すことになる。そうなると、相手はつかんでいる手を離すか、人がよければ、我慢して離さずに持っていてくれることになるだろう。

つまり、呼吸力は、気形の稽古の基本がしっかりできていなければ、本当の養成はできないということになる。本当の養成とは、手と足が陰陽で動くようになり、体重が左右に撞木で移動し、手や体も十字につかい、息も縦と横の十字につかう、息はイクムスビでつかう等があり、さらに体の体当たり、気の体当たり、また、相手との接点で相手と結び、一体化してくっつけてしまう引力などを身につけることである。

気形の稽古でこれらのことが身についてくれば、今度は本格的に呼吸力をつける稽古ができるようになるはずである。従って、ここからが本格的な合気道の稽古になると考える。

すると、体も心も全開した力一杯の稽古ができるようになるのである。これまでは、力を出そうと思っても、相手に抑えられてしまったり、相手に手を離されてしまったりして、どうしても力をセーブすることになり、体も心も全開できなかった訳である。

もちろん、合気道は相対で稽古するわけだから、いつも誰にも全開でやったりすると、相手に迷惑をかけることにもなるだろう。相手に合わせて稽古しなければならないのは当然である。合気道は愛の武道なのだ。だが、いつも相手に合わせてセーブする稽古をしているのでは、こちらの稽古にならないだろう。

それ故、相手に迷惑をかけず、しかも自分が全開でき、そして相手も満足して倒れるような稽古をしなければならない。そのためのポイントはいろいろあるが、そのひとつは、息に合わせて技をかけることである。さらにいえば、心で相手を導きながら、体をつかうことである。

心と息は自由自在につかえるので、どんなに速くも遅くも、強くも弱くも、コントロールできる。自分のレベルアップもできるし、相手を思いやることもできる。ついでながら、稽古で相手に怪我をさせるのは、この息と心で技をつかわないからである、といえよう。

この心と息で技の錬磨をしていくと、「負の稽古」ができるようになる。「負の稽古」とは、適当につけた名称であるが、つまり、己の不得意、短所、欠点を見つけ、補っていく稽古ということである。

初心者の段階では、この反対の「正の稽古」ということになるだろう。それは、己の得意、長所に頼り、それを伸ばしていく稽古、ということである。己の不得意、短所、欠点を見つけるのは、それほど簡単ではない。それは、己を限界まで追い込んだところでしか出てこない、と思うからである。

高段者になってくると、己の「負」の箇所が気になってくるようになる。これは、武道家としては当然だといえるだろう。何しろ武道であるからには、敵は必ずこちらの弱いところ、弱点を攻めてくる筈である。

それに、合気道にはこちらからの攻撃がない筈なので、スポーツなどの試合のように、得意なもので攻めることもないわけで、得意なものは後ろに控えさせておくことになる。己の弱点は、もしかすると敵には分からないかもしれないが、己には分かるものである。

負の稽古をし、心と息をつかい、心と体を全開して気形の稽古をしていけば、呼吸力がついていくのではないか、と考える。今は、弱くてもよい、強い相手にがんばられてもよい。将来につながっていけば、いつかできるようになる筈である。