【第448回】 魄と魂の二つの岩戸開き

合気道は相対で技をかけ合いながら精進していく武道であるが、受けの相手を技で制したり、導いていくのは容易ではない。容易だと思っている内はまだまだであり、容易ではないと思うところから、真の稽古が始まると考える。

ある程度体ができて、技の形を身につけると、同程度の相手を投げたり、抑えることはできるだろう。だが、体力があったり、腕力のある相手には、歯が立たなくなる。

この段階に入ると、たいていの稽古人は力でこの問題を解決しようとするものだ。鉄棒や鍛錬棒などを振ったり、腕立て伏せ運動をしたりして、ますます力を込めて技をかけるようになる。力を入れれば入れるほど、力があればあるほど、技はうまくきまる、と考えるからである。

力はあるに越したことはないが、力に限界があることも、やがては分かってくるだろう。そこでいろいろと悩み、考え、学習することになる。だが、最良の方法は、開祖の教えにもどり、それまでの力に頼る魄の稽古から、その反対側である心、精神を表に出す稽古へと変えることである。即ち、宇宙の法則に則った技づかいをすることに努めるのである。例えば、十字の体づかい、十字の息づかいであり、心主体で技をかけるのである。

この段階に入ると、相手に多少は体力や腕力があっても、そのような相手を導くことができるようになる。開祖や有川師範がいわれる通り、見かけの体格や体力はあまり関係がない、ということが実感できるようになってくる。

しかし、この段階では、まだ大きくて体力のある相手を意識するものだし、意識するあまり、技をかけても引っかかったり、ぶつかったりしてしまうこともあるだろう。さらなる精進をするためには、次の次元の稽古をしなければならない。

それは、「魄と魂の二つの岩戸開き」である。不思議に思うのであるが、人の話を聞いたり新聞を見たりテレビを見たり、あるいは本を読んでいても、自分が今興味があることや、問題解決を探していることがあると、その解決策やヒントがタイミングよく示されるのである。

この「魄と魂の二つの岩戸開き」も、ちょうど次の次元に進むにはどうやればよいかと考えていたら、『合気神髄』のある箇所が目にとまった。この「魄と魂の二つの岩戸開き」こそが、今の問題を解決し、次の次元に進める切符である、とピンときたのである。

「魄と魂の二つの岩戸開き」とは、体と心を空っぽにすることであると考える。まず、体を空っぽにするということであるが、力みを取り、腰腹からの力がスムーズに流れ、全身の血液も滞りなく流れて、その結果、宇宙からの気(エネルギー)が入るようになることである。宇宙と繋がっていくわけである。

また、心をからっぽにするということは、無心になることである。相手が大きいとか強そうだとか、あるいは相手を怖がったり、相手を投げてやろう、などと思わない事である。ただ無心になって、宇宙の法則を見つけ、身につけるべく、技の錬磨をするのである。そうすれば、宇宙を感じ、宇宙と結ぶようになるはずである。

従って、「魄と魂の二つの岩戸開き」とは、これまでの物質主体の体、見えるものを重視してきた体から、まず、その体を空っぽにし、そしてそこにそれまで見えなかったモノ(多分、それが「気」であると考えるが)が入るようにすることである、と考える。

また、心も目で見えるものを見るだけではなく、目で見えないモノを見るようにし、そして、宇宙と繋がることである、と考える。

体(魄)と心(魂)は、両方とも「魄と魂の二つの岩戸開き」をしなければならないのである。体(魄)と心(魂)を結んで、岩戸開きをしなければならないと、開祖は次のようにいわれている。「合気はまず十字に結んで天ていから地てい息陰陽水火の結びで、己れの息を合わせて結んで、魄と魂の岩戸開きをしなければならない」。

つまり、息に合わせて、魄と魂の岩戸開きをするのである。天と地の縦の息に、己の縦の腹式呼吸と合わせ、また、地の横の呼吸(潮の干満)に己の横の胸式呼吸に合わせて、十字の息で魄と魂の岩戸開きをするのである。

また、「魄と魂の二つの岩戸開き」は、相対の受けの相手に技がかかるだけではなく、本当の人に必要不可欠なものである。「魄と魂の二つの岩戸開きをする。これをしなくてはいけない。そうでなかったら本当の人にはなれない」と、開祖はいわれているのである。また、そのためには、心の洗濯が大切である、ともいわれている。

息と合わせ、心の洗濯をしながら、「魄と魂の二つの岩戸開き」をしていきたいと思う。