【第442回】 修業には順序というものがある

合気道の修業を続けていくと、己れの上達の具合や、己れの実力が気になるものだ。誰でも上達しようと稽古に励んでいるのだから、当然であろう。

しかし、自分で判断するのはなかなか難しいものだ。正確に判断するのが、難しいのである。理由として、修業には位というものがあるが、合気道ではそのような段階があることを意識しないことであろう。それに、人は自分自身に甘いものであり、したがって甘い点をつけたり、自分のやっていることは正しいのだからこのままでよい、と思ってしまうこともある。

今、「武士道というは死ぬ事と見付けたり」で有名な『葉隠』を読んでいる。これまで、この本は訳者のいうとおり、死の哲学を書いたものと思って敬遠していた。ところが、どっこい、これは人間の生き方を教えてくれるものであった。まさに今のような社会で、類型化され、物質文明に浸っている人間には、必要な人間美学なのである。

この中に、以前にも書いた、老後のある剣の達人の話があり、修業には順序というものがあると、およそ次のように言っている。

「人間一生の間の修業には順序というものがある。下の位は、自分でも下手と思い、他人も下手と思う。中の位は、自分の不十分さがよく分かり、他人の不十分なところも分かるものである。(だから、この位の人は、人にああでもない、こうでもない等という:著者)上の位は、すべてを会得して自慢の心も出て、人がほめるのを喜び、他人の十分でないことを嘆くという段階である。その上の上々の位となると、知らぬ顔をしている。しかし、他人も上手だということをよく知っている。大体はこの段階までである。
 この上をさらに一段とび越すと、普通では行けない境地がある。その道に深く分け入ると、最後にはどこまで行っても終わりはないということが分かるので、これでよいなどと思うこともなく、また自慢の心も起こさず、卑下する心もなく進んでゆく道である。」

この修業の順序と段階は、剣だけではなく、合気道にも当てはまるようである。この段階に合わせると、自分がどの段階にあるのかわかるだろうから、次の段階を目指すことができるようになるだろう。

最終的に目指すべきは、もちろん、上々の位の上の段階である。この境地に入ると、「今日は昨日より腕があがり、明日は今日より腕が上がるというふうに、一生かかって日々に仕上げるのが道というもので、これも終わりがないのである」ということになる。

合気道の開祖は、このような境地で修業を続けておられた。最後の最後まで、まだまだ「修行じゃ」ということであったし、最晩年でも「これから、本当の修行じゃ」とよく言われていた。この境地に入ると、これまでの修業とは大きく変わる。つまり、質的に変わるわけである。それまでは、上手い下手、強い弱いなど、他人との相対的なものであったのが、今度は自分との戦いになる。

そうなると、肉体的、物質的、魄の修業から、精神的、魂の修業に変わってくることになる。もちろん相対稽古も必要であるが、これまでのように、相対稽古の相手は倒す対象ではなく、自分のかけた技を判定してくれたり、アドバイスをくれる先生となる。いうなれば、「相手はいるが、相手はいない」ということになる訳である。

われわれも己れの位を確認し、次の位をめざし、そして、上々の位の上の境地に入って、修業を続けていくようにしたいものである。


引用文献  『葉隠』(奈良本辰也=訳編 角川文庫)