【第436回】 体が教えてくれる

合気道を入門してから、当分の間は先生や先輩のやること言うことを聞き、少しでもその先生や先輩に近づきたいと思いながら稽古を続けていた。その時、先生や先輩のやることや言うことを無視して、自己流でやっていれば、貴重な教えは身につかなかったことだろう。

もちろん、人により場合により、教えには違いがあるし、往々にして真逆のこともある。しかし、教わると決めたら、真逆であろうが、違うと思おうが、それを身につけるように努力しなければならないだろう。どれが正しいかは、いろいろなことがある程度身についた後になってわかるものだ。

入門した頃の先輩や同輩は、我々を教えてくれた師範の真似がうまかった。稽古の後でよく、ある師範のやり方はこう、別な師範のやり方はこう、と披露し合って楽しんでいたものだ。しかし、誰かが大先生の真似をしているのを大先生に見つかって、一同、大目玉を食らってしまった。大先生の真似をするのはお前たちには10年早い、もっともっとしっかり稽古しろ、とのことであった、

しかし、大先生も亡くなられ、教えて頂いた師範や先輩もだんだんいなくなって、教えてくれる人が減ってしまった。師範や先輩などに教えて貰うことができなくなる時が来たのである。だが、精進するためには、教えが必要である。では、誰に教えてもらうことができるだろうか。

それは、自分自身である。自分が、自分自身に教えてもらうのである。自分自身が自分に何を教えてくれるかというと、まず、これまで師範や先輩が教えてくれたことが自分の中に蓄積されているわけだから、それを必要に応じて取り出してくれる。こういう時、先輩はこうしろといったとか、あの時、先輩はこうやった、など等である。

人は、一度見たことや聞いたことは、体のどこかに保存しているということなので、それを取り出せばよいわけである。ただ、どこかに確実にあるとしても、必要なタイミングで出てこないのが問題なだけだ。

必要な時に貴重な教えが出て来やすくなるためには、教わるときにしっかり教わることである。いい加減な気持ちで教わったら、思い出すのに苦労すること間違いなしである。

次に、自分が合気の道を教えてくれるのである。これまでは、他人から学ぶことに明け暮れていたので、昨日はこっち、今日はこっちで、明日はどっちに行くのがわからない、という稽古をしていた。だが、だんだんと自分が進むべき道を教えてくれるようになるのである。

これまでの経験と知識、そして鍛錬でつちかった体と心が、導いてくれるのである。自分の心身が、これはよいとか悪いとか、こうした方がよい、といってくれるのである。

体と心の声を聴けばよいのである。体と心が教えてくれるのである。次回は、体の声を聴くことについて研究してみることにする。