【第427回】 諸手取呼吸法のできる程度にしか技はつかえない

入門した頃は、どの時間、どの先生でも、必ずといってよいほど、形稽古に入る前に、片手取りや諸手取り呼吸法をやったものである。当時は、これは準備運動代わりにやるのだろうと思っていたし、四方投げや小手返しなどと同じような技の稽古だと考えていた。だから、呼吸法も相手を倒せばいいとばかりに、力と勢いで相手を倒していい気になっていた。

ありがたいことに、呼吸法は形稽古とは違うものであって、呼吸力をつけるための呼吸力養成法である、と気づかせてもらった。気づかせて下さったのは、以前にも書いたように、有川定輝先生である。

有川先生は、諸手取呼吸法をたいへん大事にされていた。先生は晩年に、毎時間の稽古を一つのテーマに則っての終始一貫した稽古をされたが、その稽古システムに入る以前は、その稽古も片手取呼吸法か諸手取呼吸法から始められ、しかも、それに充分な時間をかけておられたのである。

有川先生は諸手取呼吸法の稽古でよく、「諸手取呼吸法ができる程度にしか技はつかえない」といわれていた。当時はその意味がよく分からず、諸手取呼吸法で相手を倒せれば、四方投げでも小手返しなどでも、相手をその程度に投げ飛ばす事ができるようになるということだろうと思い、相手を投げ飛ばす稽古をしていた。

この稽古があまりにひどかったのか、ふだん口では指導されない有川先生が、そんな稽古をしては駄目だ、と注意して下さったのである。それまで気分よく相手を弾き飛ばしていたのに、それは駄目だと言われたので、その時は「有難うございます」といったものの、内心ではちょっとむくれていた。

しかし、その後、なけなしの頭を総動員して考えた。なぜ相手を弾き飛ばして満足しているような稽古ではだめなのか、では、諸手取呼吸法はどのように稽古していかなければならないか、等である。

結論は、原点に戻ることであった。何か壁にぶつかったり、問題が起こって解けないときには、基本に戻るのがよい。まず、「諸手取呼吸法」という名称である。この名称は先人が苦労して考え抜いてつけられたはずであるから、深い意味があるはずである。

諸手取呼吸法の呼吸法であるが、呼吸法とは呼吸力養成法である、と考える。呼吸法とは、呼吸力を身につけていくための稽古法である。だから、相手が倒れたとしても、腕力などでやるのでは、呼吸法の稽古の意味がなくなってしまうことになるわけである。

逆に、たとえ相手に諸手でおさえられたり、二人掛け・三人掛けの諸手でおさえられて、うまくいかなくても、呼吸力が少しでも養成できればよいわけである。

諸手取呼吸法の諸手というのは、受けの相手が両手でこちらの片方の手をつかむ法であり、片手を片手でつかむ片手取呼吸法、受けの両手でこちらの両手をつかむ両手取呼吸法とは区別されている。

この諸手取呼吸法は、呼吸力養成法としては片手取呼吸法や両手取呼吸法と同じジャンルではあるが、この両者の呼吸法とは大きい違いがある。それが、諸手取呼吸法の特徴でもあるだろう。そして、その特徴が重要で、有川先生がいわれた「諸手取呼吸法が出来る程度にしか技はつかえない」ということになる、と考える。

諸手取呼吸法は、こちらの片方の手を相手は二本の手(諸手)でおさえてくるわけだから、こちらの一本の手で二本の手の相手を制するのは、物理的、論理的には不可能である。これが諸手取呼吸法の最大の特徴であり、この問題を解決することが、合気道の技をうまくつかうためのカギであると考える。

つまり、諸手取呼吸法によって、力(魄力)よりも強い力(呼吸力)や魂の力(心、精神、天地)を養成する稽古ができるようになり、それが養成されていけば、その程度に従って技をつかえるようになるのである。

次回は、諸手取呼吸法で身につきやすい「技が効くための要素」を考えてみたいと思う。