【第421回】 同質の中に異質

合気道は、気形の稽古を基本とする武道である。つまり、形稽古であり、基本の形を繰り返し、10年、20年、30年・・・と稽古していくのである。

それほど多くない基本の形を、何十年も繰り返し々々稽古していることを考えてみると、不思議である。ふつうの事なら一回やれば充分と思えるが、何度も繰り返しながら、何年もやっていくのである。私など50年、半世紀もやっているのであるが、よくも飽きないものだと思うどころか、もっともっと繰り返して稽古したいし、しなければならない、と思うのである。

いくらやっても飽きないどころか、まだまだやらなければならない、と思うのはなぜなのか。それは、基本という同質なものをやっていくと、それまでとは違う異質なものが出てくるからだ、と考える。

それを図で描いてみると、次のようになるだろう。

例えば、合気道の基本の形(通常、基本技といわれる)をやっていくと、初めは手も足もばらばらでやっているのだが、それが手先と腰腹を結び、腰腹で手をつかうようになり(上達)、手を十字に遣う(上達)、足を左右陰陽に遣う(上達)、相手を円の中に入れる(上達)等などと、やっていることは同じ基本の形であっても、そこに異質のものを見つけていくことになる。この異質のものを見つけ、身につけることが上達になる、と考える。

異質のものを見つけて上達するためには、同じ事、つまり同質のものを繰り返し々々やらなければならない、と考える。そのためには、複雑なものでは駄目で、単純なものがよい、ということになる。合気道では、それが基本技である。

それは、他の分野でも同じであろう。弓道や相撲でも、基本的には昔からのメニューを繰り返し繰り返し稽古するものだ。基本的な稽古をやるのだが、そこに異質のものを見つけようとしているのである。バレエや踊りも同じであろう。茶道や華道など、習い事はみな同じはずである。

剣の素振りでも、基本的な素振りを繰り返すのがよい。奇をてらうような派手な事をやろうとしても、意味がない。意味がないというのは、自分の上達のためにはならない、ということである。

稽古や修行というのは、先述の図のように、時系列で線につながっていなければならない。その線から逸脱すれば、後で問題になるのである。例えば、剣であれば、剣を合気剣としてつかえなければ、合気道の体術にもつかえないことになる。さらに、合気道の体術での基本技で、基本的な動きができないということは、倒すことに専念してやるべきことをやらなかった結果である。

剣を基本に沿って振っていけば、いろいろと発見がある。異質の発見である。異質とは、それまでと違うもの、違うやり方である。例えば、剣と腰を結んで、剣を腰で振る。正中線が見えてきて、その重要性が分かる。手は左右陰陽で使う。剣と息は十字に遣う。息は吸う息は□、吐く息は〇。肩を貫(ぬ)くために、肩は十字に遣う、等などである。

同質の剣をただ振っていくことで、異質のものを見出していくのである。異質のものは無限にあるだろう。これまで誰も「全部見つけてしまったし、もう稽古をする必要はない」などと言うのを聞いたことはない。

合気道は同質(基本)を繰り返し稽古しながら、異質(法則)を見つけていくものである。同質をあきずたゆまず、繰り返し々々稽古していくのである。

同質を稽古すればするほど、想像もできないような異質のものを身につけることができるだろう。